本読みの感想(ネタバレあり)を中心に、日々のことごとを。
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再生(ゲド戦記3)
2007年01月11日 (木) | 編集 |
アーシュラ・クローバー・ル=グウィン『ゲド戦記3 さいはての島へ』読了。

ゲドが一層陰気になった。
この人の、「世の中の苦悩や絶望を、すべて一身に背負ってます」、というようなところは、苦手だ。
知っていたり、感じ取ったりしていることを、
わかるようにはちっとも教えてくれないし(魔法使いの常、らしいが)、
アレンがゲドを信用していいものかどうか、迷ってしまうのも無理はない。

アレンは、すごくころころと気持ちが変わる。
ゲドのことを尊敬し、崇拝し、忠誠を誓うけれども、次の瞬間には、呆れ、怒り、侮蔑する。
この「揺れ」の繰り返しはアレンの弱さ。

弱さがあるからこそ、アレンは死を恐れ、永遠の生への欲を知り、闇への道案内になれる。
ゲドには、その弱さがないから、道を知ることができない。
しかし、ゲドは強いわけでもなく、無欲なだけ。
無欲というより、やはり「絶望」しているように見える。
ゲドは疲れている。
世界も、秩序を失いつつあり、疲弊している。

繰り返し語られるのは、
「光と影」「生と死」「表と裏」はどちらかがどちらかを制するものではなく、
互いに同時に存在している、ということ。
生は死の始まりで、死はまた生の始まりでもある。
しかし、人はつい光を、生を、表ばかりを見ようとする。
今回のテーマは、1作目に少し戻ったような感じか。
自己の陰部の認識、許容、そしてコントロール。

自分が何者なのかもわかっていないアレンだったけれども、
感情の激しい起伏を克服し、厳しい旅、穏やかだけれども空虚な安寧を経験した後、
死の世界へと挑み、戦い、生きて還ってきて、自分を知る。

「ことば」を司る魔法使いの長、ゲドの退場とともに、
「ちから」を司る若き王が長く空いていた玉座につく。
世界の秩序は守られる。
この交代劇が、世界の再生の象徴。
それとともに、アレンやゲドという個の再生でもあるのだと思う。
(ゲドは退場するけれど、故郷のゴントに向かったことが、すなわち彼の再生への道なのだろうから)

自由は与えられるものではなく、選ぶもの(ゲド戦記2)
2007年01月09日 (火) | 編集 |
アーシュラ・クローバー・ル=グウィン『ゲド戦記2 こわれた腕環』読了。

やっぱり観念的で地味だった。
大きなテーマはわかりやすい、と感じるのだけれど、
一文一文を読み解くのは、難解。

『影との戦い』で「答えを導く過程が描かれていない」と感じていたのは、
会話がなんだかかみ合っていないような感じで、まっすぐに進んでいかないところや、
キャラの感情がコロコロ変わるところにも要因があるのかもしれない。
おそらくは、言葉を表の意味だけで捉えてはいけないのだと思う。
その言葉が示唆するものを正確に捉え、
返す言葉も、また何かを暗に含んでいるものを選ぶ。
そういう表現なのかと。
過程を描いていないわけではない。
感じ取れていなかっただけなのかも。
だから、置いてけぼりになりそうになる。
いや、きっとこれは、わたしが分からず屋だからなのだろう。
ああ、嫌になる。この、あまりにも貧しい我が感性が……
『影〜』で「魔法使いの直感」と解釈したけれど、
「直感」というのは、あながち間違いとは言えないのかもしれない。
言葉の文字面ではなく、「真」を感じ取れ、と。
「真のことば」「真の名前」は本作の重要なキーワードでもある。

地下に住まう「名なき者」に魂を「喰らわれし者」(アルハ)として存在している少女。
アルハは、地下を唯一の自分の居場所と認め、闇の世界に染まっていく。
手探りで、地下の曲がりくねった道を行く。
少しずつ、少しずつ、息をつめて、神経を磨り減らして。
その描写が丹念で、読んでいても鬱々となっていく。
アルハにとっては唯一の楽しみ、唯一の冒険だけれど、読者にとっては、ある種の退屈。
また、一方、アルハが「滅び」へ向かう道を、ひたすらに突き進んでいくようで、嫌な気分になる。
ゲドを発見することで、彼女に契機が訪れる。
そう、ゲドは脇役に過ぎない。
ゲドは、支える人。
決めるのは、あくまでもアルハ。
少女は、ゲドの助けを借りて、闇に呑み込まれず、自分を取り戻す。
テナーという「真の名前」を手に入れる。
名前が自己の象徴。

前作は、自己の闇を見つめ、受け入れる話だった。
今作はもっと初歩に戻って、自分自身が何者なのかを認める話だった。
ゲドの言うように、アルハとテナーは同時には存在できない。
アルハが死ななければ、テナーにはなれない。
だから少女は、自分の真の名前を知っても、
はいそうですか、と簡単にはテナーにはなれない。
最後まで、ゲドと一緒に行くか、行かないかと激しく揺れる様が、
ただ単に見知らぬ土地へ降り立つ不安だけではないことは、明らかだろう。

六曜博士、大活躍…?(きりきりなぼくの日常)
2007年01月08日 (月) | 編集 |
小林めぐみ『きりきりなぼくの日常 星屑エンプレス2』読了(ちょっと前にね)。
小林さんたら、産休していると思ったら、いつの間にか新刊出ているし。

まず言いたいこと。
内容うんぬんより、誤植が多くてちょっとげんなりですよ。
いきなり3行目に誤植。
同じ単語がその8行後には出てくるというのに。
食い付かれた腕が右になったり左になったりするし。
人名も間違っているし。
校正者しっかりしてくれー!

それはそれとして。小林節健在!
なんだか科学っぽい造語をさくさく出してくるところは、さすが。
ほとんどが六曜博士のセリフなので、それらの造語の意味なんか無視して読み進んでも、
なんら支障がないところも、さすが。
(ときどきは、必要なキーワードが含まれていたりもするけれど)
造語乱発のおかげで、ちょっと小難しそうというか、ややこしそうな作風にもなるが、
「“科学”の力でなんでもできちゃう」という世界観をうまく表現してもいる。

小林さんの「六曜博士LOVE」ぶりがすさまじくよくわかった。
前巻で宣言どおり、出るわ出るわ。
「俺たち天才!」の連呼は、まあ、読んでいても楽しい。
スコーンと抜けたバカっぷりが。
彼らは明らかに『食卓にビールを』バージョンの小林さんだ。
この六曜博士の明るくてテンションの高い単純バカっぷりと、
銀河帝国の実は陰湿で複雑なサスペンス部分と、
高知の平凡で無力で一途なところが、
今作はほどよいバランスになっているかと。

1巻を読んだときは、ノリで押し通す作品でいってしまうのかと思っていたが、
そうでもないみたい。
いきなり「ねこのめ」シリーズと同じテーマがやってきてびっくりした。
コミカルな中にふっと重いテーマを混ぜるのが、うまい。
まだまだ悩みはじめたキャラにすぎない高知とナオが、
このシリーズではどんな答えに、どうやって辿り着くのか楽しみ。
なので、ああ、どうかシリーズが頓挫しませんように。
シリーズは、長くなくていいぞ。
(そういえば、「ねこのめ」は3巻完結でしたねえ)

魔法使いは問答が得意(ゲド戦記1)
2006年12月19日 (火) | 編集 |
アーシュラ・クローバー・ル=グウィン『ゲド戦記1 影との戦い』読了。

原作読むまで映画を観ないぞ、と思っているうちに、
あれよあれよと時は流れ、ようやく読み始めた次第。
(よって、映画は未見なのです)

全体的に、非常に観念的だ。
だれも「答え」(敵の正体や戦い方や解決策など)を知らないふうなのに、
実はみんながちゃーんとわかっている、ということが多くて、
少々置いてけぼりにあった気分にもなる。
その「答え」がどうやって導き出されたか、という部分がほとんどない。
だから、無知で無謀なはずのゲドが、いきなり悟ったようなことを言うところや、
ドラゴンとの問答や、石をめぐるやりとりに、とても唐突な印象を受ける。
これは個人的な印象だが、西洋の作品というのはそういう傾向にある気がする。
(『指輪物語』『ガリバー旅行記』『ナルニア国物語』『ハリー・ポッター』……)
文化的なものか宗教的なものか、もしかしたら翻訳の際の「クセ」なのか?
過程をごちゃごちゃ語るよりも、問題と対決する姿に重きを置いているのかもしれない。
(方法より、結果?)
よくわからないが、本作においては「魔法使いの直感」とでも解釈しておこうか。

唐突と言えば、
ゲドの未来と、それにまつわる世界の未来が、ひどく絶望的だったはずなのに、
2年くらいであっさりとロークを出ていったのには拍子抜けした。
表現が大袈裟なんだか、なんなんだか……
のちのち、影の正体に気付いてくると、理解できなくはないわけだが、
それにしても……
(まあ、この手の展開も、よくあるパターンだが)

「魔法使い」から想像していたよりも、ずっと地味な話だった。
自己の二面性の認識と受容。
よくあるテーマではあるが、大切なテーマであり、
最初から最後までちらちらと見え隠れしながら、
きちんと貫かれているところが、いい作品だ。

それから、
ゲドを筆頭に、黒い肌の人たちが活躍していて、
帝国に屈しない多島地域=多様な文化あり、という、
世界観も意外性があって、面白かった。
(1/8追記:「意外性」というのは、アメリカ生まれの小説に対して、
わたしが自分勝手に抱いていたイメージにとっての意外性、だと思う。
我が貧相な想像力や、思いこみ……情けなや)

おかしくもあり、せつなくもあり(ねこのばば)
2006年12月18日 (月) | 編集 |
畠中恵『ねこのばば』読了。
待ってました!のしゃばけシリーズ文庫新刊。
今回も短編連作。

「茶巾たまご」
若だんなは、どのあたりから金次が尋常の人ならざる者だと気づいていたのかしら。
妖の見える若だんなのことだから、実は最初からかな。
そういえば、金次が一緒なのに、平然と鳴家に指示を出しているし。
ということは、妖たちもみな、わかっていたのか?
そういう描写のさりげないところが、好きだ。

「花かんざし」
江戸広小路に平然と現れる妖たち。
団子やらおでんやら寿司やら、勝手に頼んで、支払いは若だんなまかせ。
百鬼夜行もびっくりの、白昼堂々たる魑魅魍魎どもの宴会だが、
ただ食い意地ばかりのとぼけっぷりがほほえましい。
これで、於りんと妖の絡みがもっとあればよかったのだけれど。

「ねこのばば」
収録中、一番の難解な事件。
最初、どう絡んでくるのかさっぱりわからなかった出来事が、
最後にはきちっと収まるところに収まって、きれいなつくり。
事件に妖が絡んでいるところも、シリーズならではの設定が生かされていてよい。

「産土」
佐助のお話。
う〜む、完全にだまされた!
仁吉が出てこなかったり、地の文で「犬神」と書かれていたり、どうも違和感があったが、そういうことだったのか!
かなりドキドキさせられたが、最後にはすっきり。
いやー、やられた。本当に上手いなあ。

「たまやたまや」
おっとりと宣言して「放蕩息子」になる若だんなが面白い。
若だんなも妖に負けず劣らず、ずれたところがあるのかも。
と、のんびりした展開かと思いきや、若だんなったら絶体絶命のピンチに!
無茶する若だんなも、なかなかよい。
といっても、所詮体力勝負は無理だから、頭脳戦なのだけれども。
そして思い出はほろ苦いものとなり……
若だんなは、これからもどうも恋では損をしそうだなあ。


相変わらずのどかなつくりで、
うっかりするとその雰囲気に浸って満足してしまいそうになるが、
しかし「事件」を見ると、やるせなさがつのる。
悪事がばれて泣いて反省するのでもなく、「なんで殺しちゃいけないんだ」と本気で言うヤツ。
人助けのためだと思い込んで物事の善悪、優劣もわからぬ僧侶。
目先の利にとらわれて、その先には確実に待っている不幸に目をつぶってしまう商人……
あわれ、といえばあわれだが、なんとも情けない。
話の舞台は江戸だが、人の行いに時代の差はなし。
(もっとも、この小説は現代に書かれたものだから、当たり前だが)
それを思うと、背筋が寒くなる。