本読みの感想(ネタバレあり)を中心に、日々のことごとを。
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画家の位相、詩人の位相(ふたりのゴッホ)
2005年10月30日 (日) | 編集 |
伊勢英子『ふたりのゴッホ』読了。

画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。
詩人、宮沢賢治。
ふたりの類似性。
描くこと・書くことで、「自分の位相」を確かめていた。
彼らの「位相」とは何か。
おそらく、彼らにしか感じ取れない、見られない世界。

「位相」という言葉は、たぶん、小林めぐみの『極東少年』(※)を読んで知った。
----「位相を変える」ことによって、犬が鉾になったり、ボールペンが剣になったりするという設定。世界は、いくつもの位相が重なり合っているので、同じものでも、別の位相から見れば見え方が異なる、というわけ----
その後、「位相の重なり」という言葉を、初めて意識して使ったのは、伊勢さんの絵を見たときだった。
「半分透けるようにしてその世界に住んでいる人」という印象。
絵に描かれているのは、黄金色の麦畑であり、影であり、少年のような姿であり、よだかであり、すがれのひまわりであったりした。
一見写実的だけれど、けして単なる風景画ではなく、伊勢さんの心象風景にほかならなかった。
きっと、伊勢さんには見えているもの。
それが、「わたし(たち)とは別の位相に暮らす、伊勢英子さんという人」を感じさせた。
のちに読んだ伊勢さん自身の「私は風景からはみ出すのがうまくなった」という言葉で、その印象は確信に変わった。


『ふたりのゴッホ』を読み、ゴッホや賢治の住まう「位相」は、伊勢さんが住まう「位相」ともつながっているのだ、と感じた。
まったく同じ位相ではないけれど、同じ性格を持っているのだと。
(「芸術家の位相」などと簡単にまとめるつもりはない。芸術家だからといって、その位相に暮らさない人だっているだろう)

彼らにしか感じ取れない、見られない世界があった。
ゴッホや賢治の時代には、それがかなり社会から異質の目で見られただろう。
ゴッホの精神が「異常をきたした」というのは、本来あるべき「位相」に身を置いていったことなのではないか、と、この本を読んでいてわたしは感じたのだ。
多くの人が属している位相=社会、になじめないゴッホや賢治。
彼らは、自分の本来あるべき位相と、社会のギャップに苦しみ、その溝を埋めるために、作品を生み出した。
絵を描き、詩を書くことが、その位相のズレを昇華できる唯一の術だったのでは。

伊勢さんが「異常をきたした」人だとは思わないけれど、
内在する位相を昇華し、作品として生み出しているのは、同じなのではないだろうか。

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