2007年01月18日 (木) | 編集 |
上橋菜穂子『蒼路の旅人』読了。
「旅人」とつくのは「守り人」シリーズの外伝だと思ってたけれど、並行する別シリーズと考えた方がいいようだ。
新ヨゴ皇国に迫る、戦争の影。
今までは、まだ「気配」だった。
多くの国々を呑み込んできた、南のタルシュ帝国。
でも、そうはいっても海の向こうの国だし、という薄い危機感。
ところが、とうとうチャグムの目の前で、牙をむこうとしている。
チャグムは皇太子だから、常に国のことを考えねばならない。
シュガやトーサのように後押ししてくれるもの、皇太子に国の未来を夢見る民草、すべてを背負って、ことにあたらねばならない。
理想や正義感を振りかざしても詮無いこと。
「私」を殺し、理性的であろうとし、策略を巡らし、戦略のために切り捨てることもいとわず、賢すぎず愚かすぎない駆け引きをする。
国の命運を一身に背負い、常に難しい選択をしなければいけない、チャグムの苦しみが、重たい。
それだけの世界を書き上げる、上橋さんの視野の広さに感服。
「守り人」「旅人」合わせて過去6冊で描かれてきた背景ももちろん含め、国と国の力関係、地形や気候やナユグの影響、政治的な人と人のしがらみ、文化・習慣・歴史・宗教の違い……あらゆることを熟考して築き上げられていく展開が素晴らしい。
もはや八方ふさがりと思われるチャグムに、ぎりぎりの活路を見いださせる仕掛けも。
わたしがチャグムだったら、まず間違いなく船に乗る前から失敗していたことだろう。
チャグムはまだ15歳の若者だ。
自由になりたいと切望する心と、父王に嫌われているという絶望感と、国のために我が身を供せねばという使命感とのせめぎ合いが、切ない。
まして、敵には圧倒的な力の差を見せつけられ、国の命運は自分次第という追いつめられた状況で。
しかし、追いつめられて、チャグムはますます聡明かつ勇敢ぶりを発揮する。
帝になどなりたくないと言い続けてきたチャグムだが、とうとう「上に立つ者」としての覚悟を決める。
敵の罠にはまり、相手の描いたシナリオに促されて、というのは皮肉だが(このあたりはかなりハラハラさせられた)、けして言いなりになるのではなく、「たったひとりででも、立ちふさがってみせる」という決意が、チャグムらしい。
希望は限りなくゼロに近い。
けれど、自分と、自分を信じてくれる人々を信じることで、チャグムは前に進む。
ああ、もう! 完結して欲しいようなして欲しくないような。
続きがとにかく気になってしかたがない。
「旅人」とつくのは「守り人」シリーズの外伝だと思ってたけれど、並行する別シリーズと考えた方がいいようだ。
新ヨゴ皇国に迫る、戦争の影。
今までは、まだ「気配」だった。
多くの国々を呑み込んできた、南のタルシュ帝国。
でも、そうはいっても海の向こうの国だし、という薄い危機感。
ところが、とうとうチャグムの目の前で、牙をむこうとしている。
チャグムは皇太子だから、常に国のことを考えねばならない。
シュガやトーサのように後押ししてくれるもの、皇太子に国の未来を夢見る民草、すべてを背負って、ことにあたらねばならない。
理想や正義感を振りかざしても詮無いこと。
「私」を殺し、理性的であろうとし、策略を巡らし、戦略のために切り捨てることもいとわず、賢すぎず愚かすぎない駆け引きをする。
国の命運を一身に背負い、常に難しい選択をしなければいけない、チャグムの苦しみが、重たい。
それだけの世界を書き上げる、上橋さんの視野の広さに感服。
「守り人」「旅人」合わせて過去6冊で描かれてきた背景ももちろん含め、国と国の力関係、地形や気候やナユグの影響、政治的な人と人のしがらみ、文化・習慣・歴史・宗教の違い……あらゆることを熟考して築き上げられていく展開が素晴らしい。
もはや八方ふさがりと思われるチャグムに、ぎりぎりの活路を見いださせる仕掛けも。
わたしがチャグムだったら、まず間違いなく船に乗る前から失敗していたことだろう。
チャグムはまだ15歳の若者だ。
自由になりたいと切望する心と、父王に嫌われているという絶望感と、国のために我が身を供せねばという使命感とのせめぎ合いが、切ない。
まして、敵には圧倒的な力の差を見せつけられ、国の命運は自分次第という追いつめられた状況で。
しかし、追いつめられて、チャグムはますます聡明かつ勇敢ぶりを発揮する。
帝になどなりたくないと言い続けてきたチャグムだが、とうとう「上に立つ者」としての覚悟を決める。
敵の罠にはまり、相手の描いたシナリオに促されて、というのは皮肉だが(このあたりはかなりハラハラさせられた)、けして言いなりになるのではなく、「たったひとりででも、立ちふさがってみせる」という決意が、チャグムらしい。
希望は限りなくゼロに近い。
けれど、自分と、自分を信じてくれる人々を信じることで、チャグムは前に進む。
ああ、もう! 完結して欲しいようなして欲しくないような。
続きがとにかく気になってしかたがない。
2007年01月18日 (木) | 編集 |
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ『アブダラと空飛ぶ絨毯』読了。
『魔法使いハウルと火の悪魔』の続編(「空中の城」シリーズ2作目)。
ブリティッシュなファンタジー世界はどこへやら、今回はアラビアンなファンタジー世界から始まる。
魔法の絨毯に、ジンニー(精霊)入りの瓶、王女をさらうジン(魔神)、砂漠の盗賊と、王道アイテム&キャラがぞろぞろ。
人々は、会話に美辞麗句をたっぷり盛り込むならわしがあり、もどかしいやら可笑しいやら。
「砂漠の王よ」「旅人の真珠たるお方」「知恵の大御所殿」「鋭敏なる嗅覚をお持ちの王子殿」「ラクダの群れの大将殿」「砂漠の詩人殿」「世迷い言の王者殿」……これ、すべてワンシーンの会話で、アブダラがある1人の絨毯売りに呼びかけた言葉(皮肉含む)。
二人称=「あなた」、なんて陳腐なことは言わない。
そういえば、むかし読んだ『千一夜物語』でも同じような美辞麗句だらけの会話だったっけ。
バザールの様子や、食べ物のメニュー、庭園のあり方もそうだが、最もアラビアンムードをつくり出しているのは、この会話。
うまいなあ。
愛しの王女を追って、アブダラはとうとうインガリー国(ハウルやソフィーの国)までたどり着く。
何をやってもイマイチうまくいかないアブダラだが、意外と順応力は高く、習慣の違いにわりと早く馴染んでいく。
つまり、会話はシンプルに!と。
(それでも、インガリー国の人々からすればまどろこっしいのだけれど)
このへんは、空想を膨らませることが得意なアブダラならではの柔軟さか。
押しが弱くて、人が良くて、空想がに逃げ込むのが好きなアブダラ。
けしてヒーローらしからぬ彼が、一途さゆえに危険に飛び込んでいくさまは、胸がすく。
ヒロイン役の王女も、けっしてヒロインの型にはまっていないところが愛らしい。
そういえば、ハウルも臆病男で、ソフィーは勝ち気な女性だった。
ダイアナ・ジョーンズさんは、弱い女が強い男に守られるという伝統的価値観をひっくり返すのがお好み、なのかな?
ところで、ハウルとソフィーはいつになったら出てくるの? とやきもきさせられる。
人々の話題には上っているのに、ちっとも姿を現さない。
が、最後の最後に種を明かされてみれば、ハウルもソフィーもカルシファーも、そしてジャスティン王子まで、ちゃーんと早くから活躍してました、というオチが秀逸。
それを知ってから、もう一度読めば、また別の楽しみも味わえることだろう。
『魔法使いハウルと火の悪魔』の続編(「空中の城」シリーズ2作目)。
ブリティッシュなファンタジー世界はどこへやら、今回はアラビアンなファンタジー世界から始まる。
魔法の絨毯に、ジンニー(精霊)入りの瓶、王女をさらうジン(魔神)、砂漠の盗賊と、王道アイテム&キャラがぞろぞろ。
人々は、会話に美辞麗句をたっぷり盛り込むならわしがあり、もどかしいやら可笑しいやら。
「砂漠の王よ」「旅人の真珠たるお方」「知恵の大御所殿」「鋭敏なる嗅覚をお持ちの王子殿」「ラクダの群れの大将殿」「砂漠の詩人殿」「世迷い言の王者殿」……これ、すべてワンシーンの会話で、アブダラがある1人の絨毯売りに呼びかけた言葉(皮肉含む)。
二人称=「あなた」、なんて陳腐なことは言わない。
そういえば、むかし読んだ『千一夜物語』でも同じような美辞麗句だらけの会話だったっけ。
バザールの様子や、食べ物のメニュー、庭園のあり方もそうだが、最もアラビアンムードをつくり出しているのは、この会話。
うまいなあ。
愛しの王女を追って、アブダラはとうとうインガリー国(ハウルやソフィーの国)までたどり着く。
何をやってもイマイチうまくいかないアブダラだが、意外と順応力は高く、習慣の違いにわりと早く馴染んでいく。
つまり、会話はシンプルに!と。
(それでも、インガリー国の人々からすればまどろこっしいのだけれど)
このへんは、空想を膨らませることが得意なアブダラならではの柔軟さか。
押しが弱くて、人が良くて、空想がに逃げ込むのが好きなアブダラ。
けしてヒーローらしからぬ彼が、一途さゆえに危険に飛び込んでいくさまは、胸がすく。
ヒロイン役の王女も、けっしてヒロインの型にはまっていないところが愛らしい。
そういえば、ハウルも臆病男で、ソフィーは勝ち気な女性だった。
ダイアナ・ジョーンズさんは、弱い女が強い男に守られるという伝統的価値観をひっくり返すのがお好み、なのかな?
ところで、ハウルとソフィーはいつになったら出てくるの? とやきもきさせられる。
人々の話題には上っているのに、ちっとも姿を現さない。
が、最後の最後に種を明かされてみれば、ハウルもソフィーもカルシファーも、そしてジャスティン王子まで、ちゃーんと早くから活躍してました、というオチが秀逸。
それを知ってから、もう一度読めば、また別の楽しみも味わえることだろう。
2007年01月17日 (水) | 編集 |
ダイアナ・ウィン・ジョーンズ『魔法使いハウルと火の悪魔』読了。
言わずとしれた、ジブリ映画『ハウルの動く城」の原作(この映画はすでに観ました)。
読み始めてまず思ったことは、「ああ、イギリスのファンタジーっぽい」ということ。
なんだそりゃ、と思われるかもしれないが、冒頭の「三人きょうだいのいちばん上に生まれるとは、なんてついていないんでしょう!」というくだりに、思わずニヤリとしてしまった。
『ゲド戦記』に苦労した反動か、なんだか馴染みのある感触にほっとする。
愚かなことに、わたしはダイアナ・ジョーンズさんがどこの人かなんて気にもせずに読み始めたので、奥付で確認して、ああやっぱり、と思った次第。
むろん、ある種の思いこみかもしれない。
単に『ゲド戦記』よりも明るくて、楽しい冒険物語だからなのかもしれない。
が、ともかく出だしから親しみを持って読み始められたことは、幸運だったと言ってよいだろう。
「どうせ長女だから成功しやしない」とすねて、内にこもり、愚痴をこぼすばかりの、地味で消極的な女の子ソフィー。
ところが、荒れ地の魔女の呪いで90歳になると、嘆いていても始まらない、「どうせ年寄りのすることなのだから」と、ずかずか踏み込むわ、ずけずけ言うわの、超積極的おばあちゃんに大変身。
たとえ見かけは関節がガタピシいうような老婆であっても、とても生き生きしている。
ずっと強気で好奇心旺盛で前向きになり、ソフィーは輝く。
ぶつくさ文句をこぼすのは変わらない(これがまた面白い)のだが、18歳の姿の時だって、本音はきっと自分でも分かっていたのだ。
ただ、それを表に出せなかっただけ。
老婆という〈偽りの姿〉になったおかげで、内心と直結した〈本当の行動〉を取り戻すことができたわけだ。
ソフィーは「長女だから自分には魔力なんてない」と思いこんでいたけれど、実は彼女には「話しかけること」で魔法をかける力があった。
老婆になったきっかけは荒れ地の魔女の呪いだったかもしれないが、実は「自分は老婆にされてしまった」という自己暗示によって、決定づけられていたという皮肉。
この部分が、かなり面白い!
「ソフィーが老婆になったお陰で本当の自分に気付く」お話かと思ったら、さらに「自分は老婆であるという自己暗示を解くことで不必要な自己抑制を取っ払う」話だったのだ。
積極的になったソフィーのお陰で巻き起こるあれこれに、振り回されるハウルが可笑しい。
ハウルは自分でも言っているように、本当は怖がりの臆病者なのに、さも大胆で無責任な放蕩者ぶっている。
ここにも、本当の自分をごまかしている者がいる。
ソフィーは、老婆になることで本当の自分に気付いたし、ハウルはそのソフィーにお尻を叩かれて、本当の自分を知られることを許した。
そして最後には、ハウルによってソフィーの自己暗示は解消される。
だからこそ、ふたりは惹かれあったのだろう。
意外性のある展開に、やきもきする恋愛模様。
退屈する暇もなく楽しませてくれる作品だ。
言わずとしれた、ジブリ映画『ハウルの動く城」の原作(この映画はすでに観ました)。
読み始めてまず思ったことは、「ああ、イギリスのファンタジーっぽい」ということ。
なんだそりゃ、と思われるかもしれないが、冒頭の「三人きょうだいのいちばん上に生まれるとは、なんてついていないんでしょう!」というくだりに、思わずニヤリとしてしまった。
『ゲド戦記』に苦労した反動か、なんだか馴染みのある感触にほっとする。
愚かなことに、わたしはダイアナ・ジョーンズさんがどこの人かなんて気にもせずに読み始めたので、奥付で確認して、ああやっぱり、と思った次第。
むろん、ある種の思いこみかもしれない。
単に『ゲド戦記』よりも明るくて、楽しい冒険物語だからなのかもしれない。
が、ともかく出だしから親しみを持って読み始められたことは、幸運だったと言ってよいだろう。
「どうせ長女だから成功しやしない」とすねて、内にこもり、愚痴をこぼすばかりの、地味で消極的な女の子ソフィー。
ところが、荒れ地の魔女の呪いで90歳になると、嘆いていても始まらない、「どうせ年寄りのすることなのだから」と、ずかずか踏み込むわ、ずけずけ言うわの、超積極的おばあちゃんに大変身。
たとえ見かけは関節がガタピシいうような老婆であっても、とても生き生きしている。
ずっと強気で好奇心旺盛で前向きになり、ソフィーは輝く。
ぶつくさ文句をこぼすのは変わらない(これがまた面白い)のだが、18歳の姿の時だって、本音はきっと自分でも分かっていたのだ。
ただ、それを表に出せなかっただけ。
老婆という〈偽りの姿〉になったおかげで、内心と直結した〈本当の行動〉を取り戻すことができたわけだ。
ソフィーは「長女だから自分には魔力なんてない」と思いこんでいたけれど、実は彼女には「話しかけること」で魔法をかける力があった。
老婆になったきっかけは荒れ地の魔女の呪いだったかもしれないが、実は「自分は老婆にされてしまった」という自己暗示によって、決定づけられていたという皮肉。
この部分が、かなり面白い!
「ソフィーが老婆になったお陰で本当の自分に気付く」お話かと思ったら、さらに「自分は老婆であるという自己暗示を解くことで不必要な自己抑制を取っ払う」話だったのだ。
積極的になったソフィーのお陰で巻き起こるあれこれに、振り回されるハウルが可笑しい。
ハウルは自分でも言っているように、本当は怖がりの臆病者なのに、さも大胆で無責任な放蕩者ぶっている。
ここにも、本当の自分をごまかしている者がいる。
ソフィーは、老婆になることで本当の自分に気付いたし、ハウルはそのソフィーにお尻を叩かれて、本当の自分を知られることを許した。
そして最後には、ハウルによってソフィーの自己暗示は解消される。
だからこそ、ふたりは惹かれあったのだろう。
意外性のある展開に、やきもきする恋愛模様。
退屈する暇もなく楽しませてくれる作品だ。
2007年01月11日 (木) | 編集 |
アーシュラ・クローバー・ル=グウィン『ゲド戦記3 さいはての島へ』読了。
ゲドが一層陰気になった。
この人の、「世の中の苦悩や絶望を、すべて一身に背負ってます」、というようなところは、苦手だ。
知っていたり、感じ取ったりしていることを、
わかるようにはちっとも教えてくれないし(魔法使いの常、らしいが)、
アレンがゲドを信用していいものかどうか、迷ってしまうのも無理はない。
アレンは、すごくころころと気持ちが変わる。
ゲドのことを尊敬し、崇拝し、忠誠を誓うけれども、次の瞬間には、呆れ、怒り、侮蔑する。
この「揺れ」の繰り返しはアレンの弱さ。
弱さがあるからこそ、アレンは死を恐れ、永遠の生への欲を知り、闇への道案内になれる。
ゲドには、その弱さがないから、道を知ることができない。
しかし、ゲドは強いわけでもなく、無欲なだけ。
無欲というより、やはり「絶望」しているように見える。
ゲドは疲れている。
世界も、秩序を失いつつあり、疲弊している。
繰り返し語られるのは、
「光と影」「生と死」「表と裏」はどちらかがどちらかを制するものではなく、
互いに同時に存在している、ということ。
生は死の始まりで、死はまた生の始まりでもある。
しかし、人はつい光を、生を、表ばかりを見ようとする。
今回のテーマは、1作目に少し戻ったような感じか。
自己の陰部の認識、許容、そしてコントロール。
自分が何者なのかもわかっていないアレンだったけれども、
感情の激しい起伏を克服し、厳しい旅、穏やかだけれども空虚な安寧を経験した後、
死の世界へと挑み、戦い、生きて還ってきて、自分を知る。
「ことば」を司る魔法使いの長、ゲドの退場とともに、
「ちから」を司る若き王が長く空いていた玉座につく。
世界の秩序は守られる。
この交代劇が、世界の再生の象徴。
それとともに、アレンやゲドという個の再生でもあるのだと思う。
(ゲドは退場するけれど、故郷のゴントに向かったことが、すなわち彼の再生への道なのだろうから)
ゲドが一層陰気になった。
この人の、「世の中の苦悩や絶望を、すべて一身に背負ってます」、というようなところは、苦手だ。
知っていたり、感じ取ったりしていることを、
わかるようにはちっとも教えてくれないし(魔法使いの常、らしいが)、
アレンがゲドを信用していいものかどうか、迷ってしまうのも無理はない。
アレンは、すごくころころと気持ちが変わる。
ゲドのことを尊敬し、崇拝し、忠誠を誓うけれども、次の瞬間には、呆れ、怒り、侮蔑する。
この「揺れ」の繰り返しはアレンの弱さ。
弱さがあるからこそ、アレンは死を恐れ、永遠の生への欲を知り、闇への道案内になれる。
ゲドには、その弱さがないから、道を知ることができない。
しかし、ゲドは強いわけでもなく、無欲なだけ。
無欲というより、やはり「絶望」しているように見える。
ゲドは疲れている。
世界も、秩序を失いつつあり、疲弊している。
繰り返し語られるのは、
「光と影」「生と死」「表と裏」はどちらかがどちらかを制するものではなく、
互いに同時に存在している、ということ。
生は死の始まりで、死はまた生の始まりでもある。
しかし、人はつい光を、生を、表ばかりを見ようとする。
今回のテーマは、1作目に少し戻ったような感じか。
自己の陰部の認識、許容、そしてコントロール。
自分が何者なのかもわかっていないアレンだったけれども、
感情の激しい起伏を克服し、厳しい旅、穏やかだけれども空虚な安寧を経験した後、
死の世界へと挑み、戦い、生きて還ってきて、自分を知る。
「ことば」を司る魔法使いの長、ゲドの退場とともに、
「ちから」を司る若き王が長く空いていた玉座につく。
世界の秩序は守られる。
この交代劇が、世界の再生の象徴。
それとともに、アレンやゲドという個の再生でもあるのだと思う。
(ゲドは退場するけれど、故郷のゴントに向かったことが、すなわち彼の再生への道なのだろうから)
2007年01月09日 (火) | 編集 |
アーシュラ・クローバー・ル=グウィン『ゲド戦記2 こわれた腕環』読了。
やっぱり観念的で地味だった。
大きなテーマはわかりやすい、と感じるのだけれど、
一文一文を読み解くのは、難解。
『影との戦い』で「答えを導く過程が描かれていない」と感じていたのは、
会話がなんだかかみ合っていないような感じで、まっすぐに進んでいかないところや、
キャラの感情がコロコロ変わるところにも要因があるのかもしれない。
おそらくは、言葉を表の意味だけで捉えてはいけないのだと思う。
その言葉が示唆するものを正確に捉え、
返す言葉も、また何かを暗に含んでいるものを選ぶ。
そういう表現なのかと。
過程を描いていないわけではない。
感じ取れていなかっただけなのかも。
だから、置いてけぼりになりそうになる。
いや、きっとこれは、わたしが分からず屋だからなのだろう。
ああ、嫌になる。この、あまりにも貧しい我が感性が……
『影〜』で「魔法使いの直感」と解釈したけれど、
「直感」というのは、あながち間違いとは言えないのかもしれない。
言葉の文字面ではなく、「真」を感じ取れ、と。
「真のことば」「真の名前」は本作の重要なキーワードでもある。
地下に住まう「名なき者」に魂を「喰らわれし者」(アルハ)として存在している少女。
アルハは、地下を唯一の自分の居場所と認め、闇の世界に染まっていく。
手探りで、地下の曲がりくねった道を行く。
少しずつ、少しずつ、息をつめて、神経を磨り減らして。
その描写が丹念で、読んでいても鬱々となっていく。
アルハにとっては唯一の楽しみ、唯一の冒険だけれど、読者にとっては、ある種の退屈。
また、一方、アルハが「滅び」へ向かう道を、ひたすらに突き進んでいくようで、嫌な気分になる。
ゲドを発見することで、彼女に契機が訪れる。
そう、ゲドは脇役に過ぎない。
ゲドは、支える人。
決めるのは、あくまでもアルハ。
少女は、ゲドの助けを借りて、闇に呑み込まれず、自分を取り戻す。
テナーという「真の名前」を手に入れる。
名前が自己の象徴。
前作は、自己の闇を見つめ、受け入れる話だった。
今作はもっと初歩に戻って、自分自身が何者なのかを認める話だった。
ゲドの言うように、アルハとテナーは同時には存在できない。
アルハが死ななければ、テナーにはなれない。
だから少女は、自分の真の名前を知っても、
はいそうですか、と簡単にはテナーにはなれない。
最後まで、ゲドと一緒に行くか、行かないかと激しく揺れる様が、
ただ単に見知らぬ土地へ降り立つ不安だけではないことは、明らかだろう。
やっぱり観念的で地味だった。
大きなテーマはわかりやすい、と感じるのだけれど、
一文一文を読み解くのは、難解。
『影との戦い』で「答えを導く過程が描かれていない」と感じていたのは、
会話がなんだかかみ合っていないような感じで、まっすぐに進んでいかないところや、
キャラの感情がコロコロ変わるところにも要因があるのかもしれない。
おそらくは、言葉を表の意味だけで捉えてはいけないのだと思う。
その言葉が示唆するものを正確に捉え、
返す言葉も、また何かを暗に含んでいるものを選ぶ。
そういう表現なのかと。
過程を描いていないわけではない。
感じ取れていなかっただけなのかも。
だから、置いてけぼりになりそうになる。
いや、きっとこれは、わたしが分からず屋だからなのだろう。
ああ、嫌になる。この、あまりにも貧しい我が感性が……
『影〜』で「魔法使いの直感」と解釈したけれど、
「直感」というのは、あながち間違いとは言えないのかもしれない。
言葉の文字面ではなく、「真」を感じ取れ、と。
「真のことば」「真の名前」は本作の重要なキーワードでもある。
地下に住まう「名なき者」に魂を「喰らわれし者」(アルハ)として存在している少女。
アルハは、地下を唯一の自分の居場所と認め、闇の世界に染まっていく。
手探りで、地下の曲がりくねった道を行く。
少しずつ、少しずつ、息をつめて、神経を磨り減らして。
その描写が丹念で、読んでいても鬱々となっていく。
アルハにとっては唯一の楽しみ、唯一の冒険だけれど、読者にとっては、ある種の退屈。
また、一方、アルハが「滅び」へ向かう道を、ひたすらに突き進んでいくようで、嫌な気分になる。
ゲドを発見することで、彼女に契機が訪れる。
そう、ゲドは脇役に過ぎない。
ゲドは、支える人。
決めるのは、あくまでもアルハ。
少女は、ゲドの助けを借りて、闇に呑み込まれず、自分を取り戻す。
テナーという「真の名前」を手に入れる。
名前が自己の象徴。
前作は、自己の闇を見つめ、受け入れる話だった。
今作はもっと初歩に戻って、自分自身が何者なのかを認める話だった。
ゲドの言うように、アルハとテナーは同時には存在できない。
アルハが死ななければ、テナーにはなれない。
だから少女は、自分の真の名前を知っても、
はいそうですか、と簡単にはテナーにはなれない。
最後まで、ゲドと一緒に行くか、行かないかと激しく揺れる様が、
ただ単に見知らぬ土地へ降り立つ不安だけではないことは、明らかだろう。
2007年01月08日 (月) | 編集 |
小林めぐみ『きりきりなぼくの日常 星屑エンプレス2』読了(ちょっと前にね)。
小林さんたら、産休していると思ったら、いつの間にか新刊出ているし。
まず言いたいこと。
内容うんぬんより、誤植が多くてちょっとげんなりですよ。
いきなり3行目に誤植。
同じ単語がその8行後には出てくるというのに。
食い付かれた腕が右になったり左になったりするし。
人名も間違っているし。
校正者しっかりしてくれー!
それはそれとして。小林節健在!
なんだか科学っぽい造語をさくさく出してくるところは、さすが。
ほとんどが六曜博士のセリフなので、それらの造語の意味なんか無視して読み進んでも、
なんら支障がないところも、さすが。
(ときどきは、必要なキーワードが含まれていたりもするけれど)
造語乱発のおかげで、ちょっと小難しそうというか、ややこしそうな作風にもなるが、
「“科学”の力でなんでもできちゃう」という世界観をうまく表現してもいる。
小林さんの「六曜博士LOVE」ぶりがすさまじくよくわかった。
前巻で宣言どおり、出るわ出るわ。
「俺たち天才!」の連呼は、まあ、読んでいても楽しい。
スコーンと抜けたバカっぷりが。
彼らは明らかに『食卓にビールを』バージョンの小林さんだ。
この六曜博士の明るくてテンションの高い単純バカっぷりと、
銀河帝国の実は陰湿で複雑なサスペンス部分と、
高知の平凡で無力で一途なところが、
今作はほどよいバランスになっているかと。
1巻を読んだときは、ノリで押し通す作品でいってしまうのかと思っていたが、
そうでもないみたい。
いきなり「ねこのめ」シリーズと同じテーマがやってきてびっくりした。
コミカルな中にふっと重いテーマを混ぜるのが、うまい。
まだまだ悩みはじめたキャラにすぎない高知とナオが、
このシリーズではどんな答えに、どうやって辿り着くのか楽しみ。
なので、ああ、どうかシリーズが頓挫しませんように。
シリーズは、長くなくていいぞ。
(そういえば、「ねこのめ」は3巻完結でしたねえ)
小林さんたら、産休していると思ったら、いつの間にか新刊出ているし。
まず言いたいこと。
内容うんぬんより、誤植が多くてちょっとげんなりですよ。
いきなり3行目に誤植。
同じ単語がその8行後には出てくるというのに。
食い付かれた腕が右になったり左になったりするし。
人名も間違っているし。
校正者しっかりしてくれー!
それはそれとして。小林節健在!
なんだか科学っぽい造語をさくさく出してくるところは、さすが。
ほとんどが六曜博士のセリフなので、それらの造語の意味なんか無視して読み進んでも、
なんら支障がないところも、さすが。
(ときどきは、必要なキーワードが含まれていたりもするけれど)
造語乱発のおかげで、ちょっと小難しそうというか、ややこしそうな作風にもなるが、
「“科学”の力でなんでもできちゃう」という世界観をうまく表現してもいる。
小林さんの「六曜博士LOVE」ぶりがすさまじくよくわかった。
前巻で宣言どおり、出るわ出るわ。
「俺たち天才!」の連呼は、まあ、読んでいても楽しい。
スコーンと抜けたバカっぷりが。
彼らは明らかに『食卓にビールを』バージョンの小林さんだ。
この六曜博士の明るくてテンションの高い単純バカっぷりと、
銀河帝国の実は陰湿で複雑なサスペンス部分と、
高知の平凡で無力で一途なところが、
今作はほどよいバランスになっているかと。
1巻を読んだときは、ノリで押し通す作品でいってしまうのかと思っていたが、
そうでもないみたい。
いきなり「ねこのめ」シリーズと同じテーマがやってきてびっくりした。
コミカルな中にふっと重いテーマを混ぜるのが、うまい。
まだまだ悩みはじめたキャラにすぎない高知とナオが、
このシリーズではどんな答えに、どうやって辿り着くのか楽しみ。
なので、ああ、どうかシリーズが頓挫しませんように。
シリーズは、長くなくていいぞ。
(そういえば、「ねこのめ」は3巻完結でしたねえ)
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