本読みの感想(ネタバレあり)を中心に、日々のことごとを。
ノブレス・オブリージュ(イギリス貴族)
2006年04月27日 (木) | 編集 |
小林章夫『イギリス貴族』読了。

最近、イギリスに関係のある仕事をしていて、興味が向いたので読んでみた。
漠然としたイメージしかなかった貴族や王族、領主、メイドや執事などの実態が、いくらかつかめておもしろかった。

意外だったのが、金稼ぎや学力向上を求めることを軽蔑している、ということ。
露骨な金稼ぎは品位を落とす、というのはわかる。
でも、学力を求めてない、むしろバリバリ勉強するのは格好悪い、というのには驚いた。
貴族サマは、「もともと生活のために働かなくてもよい階級なので、伝統的に知育を軽視する傾向がある」ということらしい。
「ナニー」という独特の家庭教師兼保母とか、寄宿学校とか、イギリスは教育には厳しい印象があったので、どういうことかと思ったら、
「お勉強」よりも、しつけ、人格形成、体力作り、社交性、人脈などを身につけることを重視しているらしい。
なるほどなあ。

貴族が重んじるのは名誉や建前(こういうところは、日本も同じだ)。
領民のためにごちそうを用意したり、何かの修繕の費用を出したり、外国へ英語を教えに赴いたり、戦争の前線へ出たりする、「ノブレス・オブリージュ(身分に伴う義務)」という感覚。
ただ「エライんだぞ」とふんぞり返っているのではなく、相応の義務も果たそうというのはあっぱれ。
嫌なことはなんでも誰かに押しつけりゃいいと思っている輩とは、わけがちがう。
しかし、建前を重んじて、金稼ぎを軽蔑するがために、
今では相続税などの酷税で四苦八苦している貴族が多いという。
何とも皮肉なものだ。

日本でメイド喫茶やら執事喫茶やらが流行しているのを知ったら、彼ら、どう思うんだろうか。

神は実在した人間でなければならないのか(神ともののけ)
2006年04月27日 (木) | 編集 |
志村有弘『神ともののけ』読了(2週間くらい前?)。

志村さんは「ご存じのように、神として祀られるのは、実在した人間でなければならない」と言う。
その代表例として、安倍晴明や菅原道真を挙げている。
そして「八幡大菩薩として祀られる応神天皇」も「応神天皇の母である神功皇后」も「神功皇后と関わりのあった住吉の神も日吉の神」も、実在した人物で「なければならない」という。
なんという飛躍なんだろう。
というか、わたしはちっとも「ご存じ」ない、そんなこと。
「一部の神」が実在の人物だと「確認」されているからといって、「全ての神」が実在した人物で「なければならない」、というのは、ひどく強引なロジックだ。
(念のために言っておくが、わたしは応神天皇や神功皇后らの実在を否定も肯定もしない。個別ケースは、ここでは問題ではないので)

「神は、実在した人間でなければならない」と断言するだけの、論拠を示してくれるのかと思ったら、そうではなかった。
本書は、日本各地で信仰されてきた神や霊の単なる紹介本だった。
なんともテーマが不明瞭というか、へんな本である。

志村さんは、「実在」という言葉を、どういう意味で使っているのだろう。
「ある1人の人物」に絞らず、「モデルがいた」という意味なら、まだわかる。
多くの神には、モデル(氏族とか)が反映されているだろうから。
しかし、日本全国の神社仏閣に祀られているものに、すべて具体的な(特定の)実在したモデルがいたか、というと甚だ疑問である。
仏教についても触れられているが、たとえば阿弥陀如来や薬師如来も、実在した人物なのか?

これが、「怨霊は実在した人物だ」というなら、すっきりする。
怨霊というのは、「怨みを抱いてたたりをする死霊または生霊」(広辞苑より)だからだ。
「死霊または生霊」ということは、少なくとも一度はこの世に生を受けたもの。すなわち、「実在した」ということになる。
不幸な死に方をした人を慰め、祟らないよう鎮めるために、怨霊は祀られる。
だから、そこに祀られているのは「かつて実在した人物」ということになる。