本読みの感想(ネタバレあり)を中心に、日々のことごとを。
コンビニ図書館
2006年04月30日 (日) | 編集 |
わが地域の図書館、試験的にコンビニに委託しての貸し出し・返却サービスをしています。
利用できるコンビニが近所にあるので、使ってみました。

まずはネットから予約。
準備ができたという連絡が入ったら、貸し出しカードを持ってコンビニへ。
専用袋に入った図書を受け取る。
以上。
おお、カンタン!

目的の図書が明確ならば、もう自転車漕いではるばる行かなくてすむよ。
しかも、コンビニへの搬送は、火〜土曜とけっこうマメ。
これなら1冊ずつでもこまめに借りたり、返したりしやすい。
便利だなあ〜。

しかし、不満もある。
コンビニで借りた図書以外は、直接図書館に返さないといけないそうだ。
図書館で借りた本をつい延滞してしまうのは、返しに行くのが面倒くさいから、という人は多いだろう。
借りた経緯は問わず、その図書館の本ならコンビニで返却可にしてくれれば、返却率も上がると思うんだけどなあ。

考えて書くべし(原稿の書き方)
2006年04月29日 (土) | 編集 |
真面目、理屈っぽい、堅い。
わたしの文章は、よくこう言われる。
文章に限らず、性格においてもそういうところがあるらしい。
本人としては、かなりずぼらでいい加減なヤツだと思っているのだが、文章は内面の反映だから、やっぱり堅苦しいヤツなのかもしれない。

ここ最近のわたしの記事は、いっそう上記の傾向が強いのではなかろうか。
実は、尾川正二氏の『原稿の書き方』を読んでいたので、いつもより「真面目」に作文に取り組んでみたのだ。
(もし、何も変化がなかったとしたら、たいした努力ができていないという証拠ですな)
1976年初版なだけに、内容には少々古い部分もあるが、たいへん勉強になった。
なによりも、「考えて文を書く」ということの大切さを改めて思い知った。
最近、あまりにも思いつきをだだ漏らしにし過ぎていたように思う。

鉛筆やペンではなく、キーボードで文を書くようになってから、
自分の文章がどんどんヘタクソになっているような気がする。
おそらく、あまりに簡単に書いたり消したりできるので、文字にする前に熟慮すことを、おろそかにしてしまっているのだろう。
手で直接書くならば、それなりに労力も使うし、いろいろ考えてから文字に表すことになる。
たとえば、小学生時代の作文。
原稿用紙の升目を最初から順番に埋めていって、ちゃんと文章を書けていたのだ。
後で戻って、部分的に書き直すということは、ほとんどしなかった。
表現のテクニックは稚拙でも、考えて書くということをフル回転で行っていた。
今思えば、「書く」ということに、一番純真で、真剣に取り組んでいた時期かもしれない。
テクニックはあるけれど内容が薄い、テクニックはないけれど内容が濃い、
どちらの文章が魅力的かは明白だ。

ユニークで軽快で面白い文、というのを書けるようになりたいと思っている。
それはそれで、目指しつつ、
たとえ堅くても、自分の考えを掘り下げることを忘れないようにしたいものだ。


ところで、
文のテクニックといい内容といい未熟なのはわかっているけれど、
このブログって、読んでいておもしろいのかなあ?

ロマンティック多重事件(魔法飛行)
2006年04月28日 (金) | 編集 |
加納朋子『魔法飛行』を5年ぶりくらいに読んだ。
初読の際は、あまりおもしろく感じなかったが、今回はなかなか楽しめた。

こういうのも、短編連作というのかしら。
不思議な事件+その謎解き、というセットのくり返し。
説かれた謎に、なーんだそういうこと、と少しがっかりすると、
実はまだ謎が残っている、という多重構造が面白い。
最後、4つめのエピソードで、それまで3つ分の謎が線になってつながり、
ぐるりと最初に戻って1周する感じになるのが、巧みだ。

謎解き役の瀬尾さんの優等生ぶりがやや鼻につくのと、
4つめの謎の答えが、少々都合よく運びすぎるきらいがある。
初めて読んだときはそのあたりが気に入らなかったのかもしれない。
しかし、こうしてもう一度読んでみると、
各所に巧妙に散りばめられたパーツが、最終的にそれぞれの場所にきれいに収まって、全体を形作っているところに、心地よさを感じる。
(こういう新発見があるから、再読は楽しい)

また、「ミステリー」なのに、あまずっぱい雰囲気があるのも、なんだかよい。
(ミステリーに対する偏見ですかね)
主人公が「子供以上大人未満」の短大生だからか、
携帯電話も普及していない頃のお話だからか、
小説形式の手紙に、謎解きの手紙、という文通形式のせいか、
本人が気づいているか否かは定かではないけれど、片思いの切なさのせいか、
いろいろと要素は思いつく。
とにかく謎解きが目的、というガチガチの推理小説にはない、ロマンティックなところが愛らしい作品である。

ノブレス・オブリージュ(イギリス貴族)
2006年04月27日 (木) | 編集 |
小林章夫『イギリス貴族』読了。

最近、イギリスに関係のある仕事をしていて、興味が向いたので読んでみた。
漠然としたイメージしかなかった貴族や王族、領主、メイドや執事などの実態が、いくらかつかめておもしろかった。

意外だったのが、金稼ぎや学力向上を求めることを軽蔑している、ということ。
露骨な金稼ぎは品位を落とす、というのはわかる。
でも、学力を求めてない、むしろバリバリ勉強するのは格好悪い、というのには驚いた。
貴族サマは、「もともと生活のために働かなくてもよい階級なので、伝統的に知育を軽視する傾向がある」ということらしい。
「ナニー」という独特の家庭教師兼保母とか、寄宿学校とか、イギリスは教育には厳しい印象があったので、どういうことかと思ったら、
「お勉強」よりも、しつけ、人格形成、体力作り、社交性、人脈などを身につけることを重視しているらしい。
なるほどなあ。

貴族が重んじるのは名誉や建前(こういうところは、日本も同じだ)。
領民のためにごちそうを用意したり、何かの修繕の費用を出したり、外国へ英語を教えに赴いたり、戦争の前線へ出たりする、「ノブレス・オブリージュ(身分に伴う義務)」という感覚。
ただ「エライんだぞ」とふんぞり返っているのではなく、相応の義務も果たそうというのはあっぱれ。
嫌なことはなんでも誰かに押しつけりゃいいと思っている輩とは、わけがちがう。
しかし、建前を重んじて、金稼ぎを軽蔑するがために、
今では相続税などの酷税で四苦八苦している貴族が多いという。
何とも皮肉なものだ。

日本でメイド喫茶やら執事喫茶やらが流行しているのを知ったら、彼ら、どう思うんだろうか。

神は実在した人間でなければならないのか(神ともののけ)
2006年04月27日 (木) | 編集 |
志村有弘『神ともののけ』読了(2週間くらい前?)。

志村さんは「ご存じのように、神として祀られるのは、実在した人間でなければならない」と言う。
その代表例として、安倍晴明や菅原道真を挙げている。
そして「八幡大菩薩として祀られる応神天皇」も「応神天皇の母である神功皇后」も「神功皇后と関わりのあった住吉の神も日吉の神」も、実在した人物で「なければならない」という。
なんという飛躍なんだろう。
というか、わたしはちっとも「ご存じ」ない、そんなこと。
「一部の神」が実在の人物だと「確認」されているからといって、「全ての神」が実在した人物で「なければならない」、というのは、ひどく強引なロジックだ。
(念のために言っておくが、わたしは応神天皇や神功皇后らの実在を否定も肯定もしない。個別ケースは、ここでは問題ではないので)

「神は、実在した人間でなければならない」と断言するだけの、論拠を示してくれるのかと思ったら、そうではなかった。
本書は、日本各地で信仰されてきた神や霊の単なる紹介本だった。
なんともテーマが不明瞭というか、へんな本である。

志村さんは、「実在」という言葉を、どういう意味で使っているのだろう。
「ある1人の人物」に絞らず、「モデルがいた」という意味なら、まだわかる。
多くの神には、モデル(氏族とか)が反映されているだろうから。
しかし、日本全国の神社仏閣に祀られているものに、すべて具体的な(特定の)実在したモデルがいたか、というと甚だ疑問である。
仏教についても触れられているが、たとえば阿弥陀如来や薬師如来も、実在した人物なのか?

これが、「怨霊は実在した人物だ」というなら、すっきりする。
怨霊というのは、「怨みを抱いてたたりをする死霊または生霊」(広辞苑より)だからだ。
「死霊または生霊」ということは、少なくとも一度はこの世に生を受けたもの。すなわち、「実在した」ということになる。
不幸な死に方をした人を慰め、祟らないよう鎮めるために、怨霊は祀られる。
だから、そこに祀られているのは「かつて実在した人物」ということになる。

ミスへの疑念と人間の能力への信頼、矛盾を克服するための努力を、知っているはずだ
2006年04月25日 (火) | 編集 |
JR西日本の事故から、今日で丸1年。
皮肉なことに、最近電車のトラブルが多い。

思うに、運転室には常に2人以上乗せるべきなのではなかろうか。
ベテランであろうが、新人であろうが関係なく。
人件費が倍になるので、容易なことではないのはわかる。
しかし、たった1人で作業すれば、ミスは起こりやすいのだ、どうしても。
(何人もいると、かえって気のゆるみからミスを起こす、という指摘もあるかもしれないが)

わたしの仕事は、人命に関わるほどシビアなものではないが、必ずダブルチェック、ときにはトリプルチェックを行う。
何度もチェックしているのに、ミスを見逃してしまうこともある。
そんなときは、本当に自分のことが嫌になる。
そのたびに、くり返しくり返し、対策を練り、ミスを減らす努力をしてきた。
それでも、ゼロにするのは難しい。
かなしいことだが、ミスをなくせないのは、結局は人間のやることだからだ。
(機械は人間の生み出したものだから、機械のやることも信用はおけない)
非常に細かく精巧なものをつくれたり、オリンピックの記録を更新し続けたり、人間の能力には、きっと限界はない。
それとは逆に、100%完璧にこなすことも、きっとできない。
誰にでもできるのは、手間と時間をかけることだ。

しかし、手間と時間とお金をかけることを惜しむのが、世の風潮。
不況だからとか、市場経済だからとか、もっともらしく言われても、わたしは納得いかない。
時間(短時間で)とお金(安く)とクオリティー(高品質のものを=安全に)、
この3つ全てを満たすものを望んではいけない。
命につながる仕事に携わる方々には、そのことを特に肝に銘じてほしい。

給食に
2006年04月25日 (火) | 編集 |
今日の仰天ニュース。
担任の給食に抗うつ剤混入、だそうな。

「やさしくなってほしかった」だそうな。
やさしくって、どういうことを言うんだい?

インターネットで簡単に薬を買えることや、
薬を本来の用途以外に使うこと、
しかも他人の食べ物に混ぜることへの抵抗のなさ。
恐ろしい。
言ってみれば、アメリカの牛肉輸入問題にも通じると思う。
他人の食う物なんて、どうでもいいんだ。
やはり、これも時代なのだろうか?

と、ここまで書いて思い出した。
中学時代の先輩たちが、担任の給食のシチューに、ママレモンを入れたことがあると言っていた。
薬どころじゃない、洗剤だよ?
笑って語れちゃう、笑って聞いてしまう、その神経はなんなんだ。
あの人たちは(もちろんわたしも)、もういい大人だ。

時代時代と誤魔化していいわけがない。

愛と感謝を語ろう(マイ・ディア)
2006年04月25日 (火) | 編集 |
久々に、氷室冴子『マイ・ディア *親愛なる物語*』を読みました(かれこれ1ヶ月近く前のことですが)。

氷室さんが、大好きな「家庭小説」への想いを綴ったエッセイ。
(一応補足すると、家庭小説とは『赤毛のアン』『若草物語』『あしながおじさん』『秘密の花園』といった類の物語を指す)
気のおけない友人との、とりとめのないおしゃべりのような文章で、リラックスして読める。
文章のそこらここらに、家庭小説への愛情がいっぱいだ。
アンやレベッカやパレアナなど、良きにつけ悪しきにつけ思い入れの強いキャラクターのこと、食べ物やドレスへの憧れなど、思い出すだけで弾んでしまう心が伝わってくる。
今風に言うと、ちょっとオタクっぽい?というくらい、よく詳しく覚えているものだ。
家庭小説が好きで好きでたまらないのだなあ、と、こちらの心までほころんでくる。
自分の好きなものを、どんなに好きか伝えて、読者にも興味を持たせる文章を書けるってすごい。
(わたしもそうなりたいものだ)


付録として「手紙」が掲載されているのだが、
本文ののほほんとした雰囲気とはうってかわって、こちらはだんだんシビアになってくる。
「けち」な性格の自分を育てたつましくも豊かであった生活の思い出から、
現代日本の親世代と子世代の憂いの指摘(というより氷室さんの憤り)へと発展。
この指摘は恐ろしく鋭い。
少し多いが、引用する。

「親の世代のひとびとは、生活実感としてもっていた美徳や風俗を、高度成長とともに惜しげもなく切り捨ててきました」
「彼らの人生は、子の世代の感謝によってしか、祝福されない」
「若い連中は豊かな時代を、当然のように享受していて、感謝するどころではない。貧乏をしらない世代が、貧乏をイヤだといい、親の世代の貧乏を嗤う」
「子どもも危機であるように、親たちにとっても危機であり、残っている時間は少ないぶんだけ、親の世代の人々に、絶望ににた共感と怒りがあります」
「わたしは大人対子供の二元論で、大人をとらえることができない」
「子供が大人の抑圧によって傷ついているのだとしたら、大人もまた、時代の抑圧に翻弄されているように思える」


15年以上経っても、問題はちっとも改善されていない。
今日は、時代背景と子供の不幸ばかり叫ばれているが、親世代の不幸にも焦点を当てた氷室さんの指摘に、目から鱗が落ちた。
2006年の大人も子供も、政治家も教師もサラリーマンも経営者もプー太郎も、金持ちのぼんぼんも苦学生も、まだ今日のことしか考えられない幼い子も、みんなに読んでほしい。
ここで詳細を書くことはとてもできないので、
どうにかしてこの本を手にして、手紙部分だけでも読んで欲しい。

やっぱり生が好き
2006年04月22日 (土) | 編集 |
虎のこの「サムリーマン弐の巻」を観てきました。
(虎のこHPはこちら→http://www.toranoko.info/

友人が踊り子さんとして出演。
初めて観る友人の生ダンスは、なにやら不思議な感慨なのでした。
いつもの彼女とは違う存在が、そこにあるという不思議。
それをわたしが見ているという不思議。
生き生きしている彼女は、とても素晴らしかった。
その世界に、確かに在所を得ている人なのだ、と感じたのでした。

講談師がナレーション、という趣向が個人的にツボ(噺家の日もあったらしい)。
やっぱり、講談調子は気持ちいい。
声の調子、伸び、間、メリハリ、張り扇で講釈台を叩く音……
そして、着物の衣擦れの音。
他の登場人物はほとんど洋服で、もちろん衣擦れはあるのだけど、これが違うんだな。
パリッと着こなされた着物と袴の衣擦れの音には、独特の美しさがある。

さて、肝心の芝居はというと、
笑いあり、アクションあり、涙あり、と欲張りでした。
内容はわかりやすく、ある意味オーソドックスな展開。
それだけに芝居世界に入りやすかった、とも言える。
「考えさせられる」はあまりないけど、「面白い」がいっぱい。
エンターテイメントな劇団なんだな。

そしてなによりも、
やっぱり舞台のお芝居はいい! 生はいい!
と、思い出させてくれた1時間半だった。
役者の生声や汗や息継ぎなどをリアルに伝えてくれる、生の芝居は、
観ているこちらもワクワクする。
マイクを通さない「生声」が聞ける、これ重要(発声法も違うしね)。
最近遠ざかっていたけれど、舞台の芝居を観に行く機会、増やしたいなあ。

みみざわり
2006年04月20日 (木) | 編集 |
みみざわり
聞いていやな感じがすること。聞いて気にさわること。(広辞苑より)
「耳障り」と書く。


すみません! 「舌触り」と同類かと勘違いしてました。
そういえばたしかに、「美味しい」の表現に「舌ざわりがよい」はよく使うけれど、
「美しい音(楽)」の表現で「耳ざわりがよい」とはあまり聞かない。
いや、聞かないのではなくて、間違いだから!

思うに、単独の「障り」は、もはや日常的にあまりなじみのない言葉になっているのではないか。
だから、同じ音の「触り」に引っ張られてしまうのだ。

ざざっと拾ってみる。
触り…舌触り、口触り、歯触り、手触り、足触り、肌触り、畳触り
障り…耳障り、目障り、足障り、気障り、心障り、当たり障り、差し障り、雨障り

「触り」は当然、触覚に関する言葉ばかり。
しかも舌・口・歯とある。日本人は、触覚で多くを味わったのか。
「障り」は障害に関することがらで、こちらの方が用語としては多いくらいだ。
五感のうち、「嗅覚」だけどちらにもないのは、なぜだろう。

超人的テクニックを堪能
2006年04月16日 (日) | 編集 |
セヴィアン・グローバーの「クラシカル・セヴィアン」を観てきました。

アメリカのタップ界をリードする「革命児」セヴィアンの技は、あきれるほどにすごかった。
どうやったら、あんな細かく正確にリズムを刻めるのか。
あんまりに細かくて、ドラムロールを連想させる。
ダララララ〜〜〜〜の合間にズン・ズンとアクセントが入る。
でも、遠目にはただそこに立っているだけのようにしか見えない。
テクニック的に言えば、「ダララ〜」がつま先側の金属を使って出す音で、「ズン」がかかと側からだ(オペラグラスの助けと音質で、一応わかる)。
よく、口で言えるリズムは叩けるというけれど、口でさえ真似できないほどの、音数の多さ!
もはや、人間業とは思えない。

セヴィアンのタップは、ダンスというよりパーカス。
彼のこだわりは、「ビート」。
だから、余計な「振り付け」はない。
たまには回ったりもするけれど、基本的にはただそこに立っているだけのようで、何気なく舞台上をふらふら漂っている。
激しいステップをしているのが嘘のように、上半身はリラックスしている。
なんとも、不思議な光景だった。

屋根のうえには風見鶏
2006年04月12日 (水) | 編集 |
ネット上でたまたま、
「谷山浩子の『恋するニワトリ』という歌、どうやって「ひとりでタマゴをう」んだのか、ずっと疑問」
という記事を見かけたのですが、
だってそれは、ニワトリだからですよね!
スーパーで売っている卵の多くは無精卵ですがな。

ひとりで卵を産めるニワトリが主役だからこそ、この歌には面白味があるのに〜〜
そこんとこが、この歌詞の妙技なのに〜〜
と、わたしはひとりでのたうちまわるのでした。

夜中に倒れてきたらと思うと少し怖い
2006年04月11日 (火) | 編集 |
突然、本棚の扉がもげました。
3箇所ある蝶番がみんなぼろっとね。

なんか、最近ものが壊れる話が多いような……
世の中、どこに危険が潜んでいるか、わかったもんじゃありません。

別のとこならレーザーで焼いてくれたかも
2006年04月10日 (月) | 編集 |
左薬指の指先になーんか異物感があるなあ、と気になるので皮膚科に行ってきました。
正体は、イボでした。
いやん。
じつをいうと、これで3個目のイボなのです。

数年前にできた、最寄りの皮膚科を初受診。
さすがに新しいだけあって、きれいきれい。
まるまるっとしたセンセーも威圧感がなくてよろしいんじゃないでしょうか。
でも、
「あのー、指先に……」
「どれどれ、あー、イボだね」
「え? イボですか? あの、最初はプチっと、」
「おっきくなった? いや、イボだよ。湿疹じゃない、イボイボ。液体窒素で何回か焼けばいいから」
カラカラン(液体窒素の容器をあける音)
「ちょっとピリピリするからね」
ジューッ(問答無用でイボを焼く音)

おいおいおいおい!
初診なんだから、もっとこっちにも状況説明させてよ!
つーか、液体窒素で焼くとはどーゆーことで、その後どーなるのかちゃんと説明せぇよ!
わたしは過去にも経験してるからまだいいようなものの、
初めてだったら、かなりびびるぞ、本当にもう。

まったくもー、インフォームドコンセントが聞いて呆れますな。

ヨッパライシリーズに乾杯
2006年04月09日 (日) | 編集 |
ひさしぶりに、本谷美加子の「Ocarina」を聴いていました。
タイトルが示すように、オカリナのCD。
あったかくて、まろやかで、素朴な音色が好きなんだな。

もう10年以上前のCDなのだけど、改めて聴いてみると、
ごちゃごちゃ凝っていないところが、すごくいいなあ。
デビューしたての純真っぽさというか、
「これがわたしの好きなメロディーなの」という気持ちが伝わってくるようで。
もとは街頭でパントマイムとオカリナのパフォーマンスをしていたらしいが、
それが一種の即興性というか、わかりやすさにつながっているのかもしれないな。

そして、やっぱりヨッパライシリーズが好き。
「陽気なヨッパライ」は思わず踊っちゃうおぢさんの姿が、
「たそがれのヨッパライ」はおぢさんのさみしい背中が思い浮かぶ。
そして、「マダム・ヨッパライ〜地中海バカンス篇〜」は突き抜ける開放感。
白亜のテラスと明るい太陽と青い海が目に浮かぶよう。
その光景になにやらウキウキしつつ、
ワインかなんか片手に、なーんもしない午後を楽しんでいるような気分にさせてくれるのよ。これが。

濡れぬ雨
2006年04月06日 (木) | 編集 |
濡れぬ雨
松風のこと。松を吹く風の音が、雨の降る音に似ているからいう。

日本語らしい表現だなあ……(うっとり)。
でも、わたし、松にあたる風の音をちゃんと聴いたことがあるだろうか。
「松風」とはまた、茶の湯でお湯がたぎる湯相(ゆあい:お湯の音や泡の表情)のことを言うらしい。
「松」を愛でる、和の心。なにやら、郷愁さえ覚えてしまう。

本物の濡れる雨の音に耳を傾けながら、幻の松風へと想いを馳せた。

ダブルショッキング!!
2006年04月05日 (水) | 編集 |
今日は、びっくりしたり焦ったりしたことが2つもありましたよ。

そのいち。
絵描きのHIと作家のKYが、いつの間にか結婚してた〜!
恐れ多くて(?)、ショックすぎて、思わず名前は伏せちゃいますが。
いやー、デュオ出版したり、一緒に講演したり、展覧会にいつも来てたり、妙に仲がいいなーとは思ってましたよ。
作家の文章を読むと、よほど馬が合うというか、波長が合うふたりなのだろうな、とは思ってましたよ。
でも、よもや「結婚」て形になるとは想像してなかったから……ああ、ショック。
なぜにショックかというと、絵描きのことは大好きだけど、作家の方はちょっと苦手だから(わたしが結婚するわけじゃないっつの)。

そのに。
忙しさに我を忘れそうだったのでサヨナラしたとこから、突然ラブコールが!
なんというか……どんなツラ下げて今さら戻れと?
あまりの不意打ちに、必要以上に動揺して、ハイテンションにはぐらかし対応をしてしまった(笑)
呼ばれるというのはある意味ありがたい話なんだけども、
無神経というか、気楽なというか、あけっぴろげというか、世の中そーゆー所もあるんだなあと、カルチャーショック的な衝撃を受けたのでありました。

ハリポタアズカバン
2006年04月02日 (日) | 編集 |
本読み、2つアップしました。
『逆説の日本史4』
『逆説の日本史5』
やっぱり相変わらず、長文です。

DVDで「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」観ました。
このお話は、伏線の張り方がさりげなくて好き。
映画でも、そのへんは巧く描かれていたと思う。
しかし、天気が悪かったり、暗かったりするシーンが多くて、若干疲れた。
そのわりに、ディメンダーの怖さがそれほどでもなかったのが残念。
原作を読んだときは、かなーり恐怖心をあおられたもの。

戦術家と戦略家(逆説の日本史5)
2006年04月02日 (日) | 編集 |
井沢元彦『逆説の日本史5 中世動乱編』読了。

去年の大河ドラマ、「義経」。
わたしの最大の関心事は、「義経が頼朝に追われる身となった訳をどう描くか」だった。
なんだけど、どうもイマイチすっきりしなかった。
たしか、

1)頼朝は嫡流だが、義経は傍流。兄弟とはいえ、義経は家臣に過ぎない。という思いから、当初から頼朝は義経をあまり好ましく思っていなかった。
2)頼朝の許可を得ずに、後白河上皇から官位や所領を授かったことに、頼朝が腹を立てた。上皇のお気に入りであり、京で人気があり、戦上手の義経が、将来もっと立場を強くすることに不安を抱いた。
3)頼朝側近の梶原景時と義経は馬が合わず、讒言があった。三種の神器も失われてしまったし。

というような理由が出されていたような気がする。
でも、打倒平家にあれほど貢献した義経を討伐することになる理由としては、どうも説得力が弱いと感じた。
まあ、半分寝ながら見ていたりもしたのが悪いのかもしれないけれど、
頼朝が連発する「九郎は何もわかっておらぬ」というセリフに、「わたしもさっぱりわかりませんがな」と思ったものだった。

この巻は、まさに源平の時代がテーマ。
頼朝、義経、北条家の働きによって、いかにして武家社会が築かれていったか、が分析されている。
上記の件を井沢さんがどう解析してくれるか、かなり期待を込めて読んだわけだが、今回はおおいに期待に応えてくれた。

鎌倉の許可なしに上皇から官位を授かった。
これが頼朝の逆鱗に触れた、というのは、間違いないらしい。
これがなぜ、義経の致命的失敗だったかというと、当時の社会背景があるらしい。
つまり、「武士」がいかに虐げられ、不当な扱いを受けていたか。
貴族の政治がいかに無能なものだったか。
武士は、自分たちの権利が正当に認められる「独立国」を求めていた。
頼朝の目的は、父の仇討ち=平家殲滅ではなく、武士の武士による武士のための政治基盤をつくることだった。
そのためには、「独立」だから朝廷の支配からうまく抜けださねばならなかった。
……うんぬん。

ところが、義経は「戦術」には長けていたけれど、「戦略」には疎い。
ただ目の前の戦いで、相手を倒すことしかできない義経。
しかしときには、仮に負けてもいいから、果たさねばならない目的がある。
たとえば、三種の神器を奪取すること。
三種の神器が手元にあれば、朝廷との交渉に使え、武士の独立へ大きく前進するはずだった。
頼朝の考え=武士が「独立」するための戦略、を理解できていなかった。
だから、上皇からの任官を勝手に受けてしまう。

おお、なるほど!

と、目から鱗が落ちた。
ドラマを見ていたときは、「鎌倉の許可なくといわれても、上皇の命令じゃ仕方ないじゃん」と、板挟みな義経を可哀想に思ったものだ。
でも、今は理解できる。
鎌倉の許可なく、上皇=朝廷から位をもらったら、武士の独立がはかれない。
しかも、武士の「長」の頼朝の弟がそんな勝手なことをしたら、もはや武士の結束は崩壊するしかない。
武士の結束といっても、頼朝は絶対の存在ではなく、便宜的な「長」にすぎない。
だから、「武士の独立」に反する義経は、切り捨てられるしかなかった。


ひとつの説として理解するとしても、これはなかなか説得力があり、義経の「悲劇」にも納得できた。
ああ、すっきり。
(ドラマの制作サイドが、そこまで描いていたつもりだったら、理解できてなくて申し訳ないけどね)

ケガレ思想と平和主義(逆説の日本史4)
2006年04月02日 (日) | 編集 |
井沢元彦『逆説の日本史 4 中世鳴動編』読了。

相変わらず、井沢氏の発想は面白い。
ときに、小憎らしくもある。いや、ムカつくと言ってもいい。
この巻では、「ケガレ忌避思想」を背景にした、日本人の盲信的平和主義の分析に多くのページを割いている。
これがまた痛いところををズバズバ突いてくるので、腹立たしくもなってしまうのだ。
そういう感情を抱くのは、挑発的な文章のせいもあるが、つまり真実を突いているからなのだろう。

「有事」を想定することは、暗に有事の発生を希求することにつながる。
そして、有事に備えるには、戦い=死に備えることで、死はケガレだ。ケガレは避けなければならない。
おおざっぱにいうと、こんな感じ。
日本では、古代平安の昔から、平和平和と唱えていれば、言霊の力で平和になると信じられ、逆に有事への備えを口にすることもできない。
軍隊の保持や改憲論が避けられてきたのは、そのためだ、というわけ(井沢さんは改憲&自衛隊の「正規軍化」支持者)。
なかなか説得力があるけれど、100%賛同することはできない。
こっから先は、わたしの「感情論」かもしれない。
わたしは、つい、こう考える。
人が死ぬのは嫌だ、と。
イラクで死んだ米軍の兵士は2300人を超えたそうだ。恐ろしい話だ。
でも、その1人1人のことをブッシュ大統領が考えることはないのだろう。
まだ2300人、と考えているかもしれない。
「数」勘定でしか人を捉えないから、理屈でやるから、平気で戦争なんてできるんだ。
こう思うのも、「ケガレ思想」がわたしに染み込んでいるからなのだろうか? 井沢さん。

さて。
ムカつきながら読んでいて、本当に面白いのか、と思われるかもしれないが、本当に面白いのだ。
楽しいかと聞かれれば、悩ましいけれど。
井沢さんの指摘や発想は、鋭いし、よく練られていて、説明もわかりやすい。
そして、こちらの想像力を刺激してくれる。
中には、強引な論の運びがあったり、同意しかねる説も、もちろんある。
同意しかねる説がある、というのは、それだけこちらも考えさせられているから、だと思う。
歴史の授業が嫌いだったわたしにとっては、過去の人物たちの生きた証、として歴史を捉え、考えられるようになったのは、けっこう画期的なこと。
それだけでもこのシリーズを読む意義は、充分にある。

この中世鳴動編でわたしが特に注目したのは、
「なぜ藤原摂関政治が成立したのか」つまり、「なぜ藤原氏は天皇家を倒して自ら王とならなかったのか」という点を、井沢さんがテーマとして明記したこと。
だって、わたしもずっと不思議に思っていたことだから。
長い長い日本の歴史で、なぜか支配層の最上位は「天皇」という形式は不変だ。
もちろん、現代は「支配層の最上位」ではなく「象徴」だけど。
その謎の答え(の一つ)に、いよいよ辿り着くのか、と期待を込めて読み進んだ!
のだけれど、今回は残念ながら、肩すかしだった……
せっかく問題提起してくれたのに、結局答えは明記されず。
いつもズバズバ断言しまくる井沢節でくるかと思ったのに〜。
『源氏物語』の成立と深い関わりを持っている。
これでは答えにならないよ。
怨霊信仰との結びつき(天皇家を滅ぼして怨霊となるのを怖れた?)を言いたいのかしら。
そうだとしても、いつもならその辺りの説明をきちんと(ややくどいほどに)してくれるのに。
本当に珍しく、その「結論」がない。
わたしの読解ができていないのか?

このテーマは、藤原氏に限らず、平家しかり、源氏しかり、信長も秀吉も家康も、ずーっと続くテーマなので、後の巻できちんと説かれるのかもしれない。
期待をしたいと思う。