本読みの感想(ネタバレあり)を中心に、日々のことごとを。
この男を死なせてなるものか(半落ち)
2005年10月31日 (月) | 編集 |
横山秀夫『半落ち』読了。

殺人を犯した警察官、梶聡一郎。
妻を殺害後、自首するまでの2日間の行動について、一切語ろうとはしない。
「空白の2日間」にいったい何があったのか?

ミステリーとして評判になり、昨年映画化もされたので、
概略は知っていたつもりだが、予想を裏切る展開、面白さだった。

梶聡一郎の視点で物語が進むことは、一切ない。
刑事、検事、弁護士、事件記者、裁判官、そして刑務所職員。
事件後、梶に関わってきた者たちの視点で、各章が構成されている。
ストーリーは「謎解き」の形をとってはいるけれど、
実は、それぞれを主人公とした、密度の濃い人間ドラマだ。
ひとりひとりに、思いや意地や、悩み、呻きがある。
もともと持っていた誇りが、梶聡一郎に関わることで、触発され、いっそう目覚める。

警察と検察の確執や、事件記者のネタ争い、裁判官の苦悩など、
あまりよく知らない世界のことが、鮮やかに描かれているのも、読み応えがある。
世の中、この物語の主人公達のように、組織になんか負けない、
という気概を持った人たちが、多くいて欲しいと、思わず念じてしまった。
(彼らは、やむなく組織の壁に屈してしまっても、その心はけして負けてはいなかった、と思う)

「人生五十年」
この書にかけた梶聡一郎の思いが、ようやく明かされるラストシーン。
密かに見守り続けてきた「主人公達」とともに、ああ、そうだったのかと安堵した。
そして、やはり、「この男を死なせてなるものか」と強く思った。
なにやら、目の前がさーっと明るくなるような、非常に爽やかな読後感であった。


(とはいえ、そういう理由ならそこまで頑なに黙さなくてもいいんじゃないか、
と、後からちょっと思ってしまったのも、事実なのであった)

画家の位相、詩人の位相(ふたりのゴッホ)
2005年10月30日 (日) | 編集 |
伊勢英子『ふたりのゴッホ』読了。

画家、ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。
詩人、宮沢賢治。
ふたりの類似性。
描くこと・書くことで、「自分の位相」を確かめていた。
彼らの「位相」とは何か。
おそらく、彼らにしか感じ取れない、見られない世界。

「位相」という言葉は、たぶん、小林めぐみの『極東少年』(※)を読んで知った。
----「位相を変える」ことによって、犬が鉾になったり、ボールペンが剣になったりするという設定。世界は、いくつもの位相が重なり合っているので、同じものでも、別の位相から見れば見え方が異なる、というわけ----
その後、「位相の重なり」という言葉を、初めて意識して使ったのは、伊勢さんの絵を見たときだった。
「半分透けるようにしてその世界に住んでいる人」という印象。
絵に描かれているのは、黄金色の麦畑であり、影であり、少年のような姿であり、よだかであり、すがれのひまわりであったりした。
一見写実的だけれど、けして単なる風景画ではなく、伊勢さんの心象風景にほかならなかった。
きっと、伊勢さんには見えているもの。
それが、「わたし(たち)とは別の位相に暮らす、伊勢英子さんという人」を感じさせた。
のちに読んだ伊勢さん自身の「私は風景からはみ出すのがうまくなった」という言葉で、その印象は確信に変わった。


『ふたりのゴッホ』を読み、ゴッホや賢治の住まう「位相」は、伊勢さんが住まう「位相」ともつながっているのだ、と感じた。
まったく同じ位相ではないけれど、同じ性格を持っているのだと。
(「芸術家の位相」などと簡単にまとめるつもりはない。芸術家だからといって、その位相に暮らさない人だっているだろう)

彼らにしか感じ取れない、見られない世界があった。
ゴッホや賢治の時代には、それがかなり社会から異質の目で見られただろう。
ゴッホの精神が「異常をきたした」というのは、本来あるべき「位相」に身を置いていったことなのではないか、と、この本を読んでいてわたしは感じたのだ。
多くの人が属している位相=社会、になじめないゴッホや賢治。
彼らは、自分の本来あるべき位相と、社会のギャップに苦しみ、その溝を埋めるために、作品を生み出した。
絵を描き、詩を書くことが、その位相のズレを昇華できる唯一の術だったのでは。

伊勢さんが「異常をきたした」人だとは思わないけれど、
内在する位相を昇華し、作品として生み出しているのは、同じなのではないだろうか。

青春時代の真ん中へ
2005年10月22日 (土) | 編集 |
クラス会に行ってきました。

と、その前に、学校探検。
ン年ぶりの母校訪問ですよ。いや〜懐かしい。
「うわっ、きたなっ」
「図書室だー。オレが借りた時のカードもあるのかな?」
「机ってこんな小さかったっけ」
「水道の水、がぶがぶ飲んでたよね〜。今じゃ信じられないよね〜」
「下駄箱どこらへん使ってたっけー?」
「おおー、受験資料がなんか充実してる!」
「部室見たら泣いちゃうかな。泣いちゃうよね」
「なんだ〜、あの変なベンチ! ぜってーいらね〜」
「うお! 学食!」
などなど、口々にわめきながら、10名ちょいでウロウロと。
本当に懐かしい。
窓にX字の耐震補強材が入ったりしてたけど、基本的には変わってない。
ぼろくて、汚くて、洒落っ気ゼロで、ほこり臭くて、なんかあったかい(でも本当は寒い)、思い出の場所だ。

しかし、ひとつ大きく変わったことがありました。
わたしらの頃には、出入り自由の、勝手気ままな無法地帯だったのだけど、
今じゃ、セキュリティーバリバリ。
玄関やら特別教室やら、渡り廊下やら、みんなばっちり鍵がかかっている。
その鍵も、暗証番号(+カード?)式のごついヤツ。
時代といえば、それまでですが、世知辛い世の中になったものです。
ちょっと、かなしいなあ。


さて、その後は飲み会。
元担任にも会えるからか、出たり入ったりしつつ、総勢30名くらい?
約2/3の出席率ですか。すごい。
正直、名前を思い出せない人が多々いたのだけれど、
顔を見れば、あー、たしかにいたわ、こんな人、となんとなく蘇る。
幹事が卒業アルバムを持ち込んだおかげで、また妙に盛り上がること。
自分の写真は見たくないけど、他人のはおおいに見たいんだよね。

卒業後、初めて会う元クラスメートたちは、
弁護士、医者、社長、添乗員、事務、バイヤー、主婦、母親、父親、などなど、
みんなそれぞれの道を歩んでいる。
今では、まるで接点がなく、信じられないような感じだけれど、
確かにあの1年間、この人たちとともに過ごしていたのだなあ。
こうして久々に会うと、すぐになじめてしまう(多少、探りながらではあるけど)。
なんか、ありがたい存在だ。

個は全、全は個?(沼地のある森を抜けて)
2005年10月18日 (火) | 編集 |
梨木香歩『沼地のある森を抜けて』読了。

最初は、ちょっとホラーっぽい不思議さが、面白いな、と思って読んでいたら、
だんだん難しくなってきて、まいってしまった。
一言でいうと、「個と全」の話?
印象として、『ぐるりのこと』の系譜にあたる作品のように思う。

父と母、つまり雄雌がいて生まれる人間であるはずの久美(やフリオ)。
ところが、普通の生殖活動とは異なる生まれ方をする種族だった??
「男」としての性を否定し、でも「女」になりたいわけでもない風野さん。
人間の性を考えてみたり、酵母や粘菌の繁殖を考えてみたり、作中人物たちがあちこちに意識を飛ばしながら考察していく、「生」というもの。
「個」を超越した、種族とか命とか自然とかそういうものの「生」?
ひとつひとつの「個」は滅びても、永遠につなごうとする「命」?
そのつなぎ方のひとつの形が、沼から何度も生ま出る人々?
合間に挟まる、「シマの話」も、どう読み解いていいのか……
正直、難しくてあまり理解できなかった。


ただ、漠然と思うのは、ずっと以前から、私自身が気になっていたことと多少重なっているのかもしれない、ということ。
動物であれ植物であれ、生物にとって「子孫を残す=自分の遺伝子を残す」ことが、
根本的な目的・本能だとしたら、なぜ私たちには余計な「意思」があるのだろうか。
たとえば、子供はいらない、と考える人々もいるけれど、
それはもはや、生物として間違っているのではないか?
なぜ、人間はそういう思考をできるようになってしまっているのか?
「私」という体を構成している「細胞」が、日々生まれ、死んでいくように、
自分で考えて行動しているように思っている「私」も、実は何か大きなものの一部分に過ぎないのではないだろうか。
じゃあやっぱり、何のために私たちは「思考」するのだろう……


ところで、この『沼地〜』に描かれている「ぬか床に縛られている女性たち」の姿は、
梨木作品にたびたびあらわれる「『家族』の閉鎖性・独自性」というテーマ。
一族の伝統から逃れられず、嫌だと思いながらぬか床をかき回し続けるのは、やはり「個と全」の対比なのだと思う。
そして、その「代々の女性達」の、「果てしないエネルギーの集積」と「呪縛」(p110)のくだりは、『からくりからくさ』の織り子たちに通ず。
久美は紀久に通ず。
そういう風に見ると、たしかに『沼地〜』は『からくり〜』の系譜にもあるのか。
[READ MORE...]
タップでコント
2005年10月16日 (日) | 編集 |
タップダンスの舞台「東京リズム劇場」観てきました。

約90分、ほとんどタップ漬け。
博品館は、舞台が近いので、出演者の足元もよく見えて、テクニックを十分に楽しむことができた。

中でも驚いたのが、バイオリンを弾きながらタップを踏んだこと。
ただ歩きながらバイオリンを弾くのだって、あまり見たことない。
それを、スローな曲とはいえ、跳んだり、回ったりもするのだ。
器用だなー。

ところで、2年前の前作もそうだったけど、内輪ネタが多かった。
観客の多くはスタジオの生徒、という性格上、あえてやっているんだろうけどねえ。
このコント部分の温度がビミョー。
演出家がついてるにしても、台本・構成は出演者作なのでしょう。
ネタがちょっと寒かったり、中途半端に下ネタだったりする上に、間延びしちゃっててねえ。
その中では、「アニー」ネタはなかなかよかったかな。
タップのテクはすばらしい方々なので、次回はそっちの腕の上がり具合を期待したいです。

『夕凪の街』に野暮なことを言いなさんなよ(泣)
2005年10月14日 (金) | 編集 |
こうの史代『夕凪の街 桜の国』が、韓国で発行されるにあたって、
「原爆投下は、戦争終結のためにやむを得ない判断だった」という旨の、断り書きを追加することになったらしいです。

それは、何か違うのではないでしょうか。

韓国でこの作品を発売しようというのは、とてもすごい挑戦だと思う。
それを実現すべく、働きかける人たちは、素晴らしいと思う。
確かに、「被害者である日本」を描いたこの作品は、韓国では、なかなか受け入れにくいことでしょう。
だから、「原爆はやむを得なかった」という文を追加することで、それを和らげようというねらいもわかります。

でも、この作品は、「被害者としての日本」だけ、を描いているだろうか?
この作品の登場人物は、戦争をしたかったわけでもないし、
実際に戦った兵士でもないし、戦争をさせた「国のエライ人」でもない。
「個」というものを無視されて、戦争に無理矢理巻き込まれて、はては虚しく犠牲になった、ただの人。
被爆した女性(と家族)を通して、原爆の恐ろしさ、戦争のむなしさ、が描かれているのではないでしょうか。
戦争が悲しいことなのは、韓国でも日本でも、世界中どこでも同じです。

原爆投下が「やむを得なかった」かどうかなんて、
「戦争はなぜ起きたか」というのと同じような、妙に高みに登った視点は、ここでは不要なんです。
それは、あたかも、イラク戦争前に、
「米兵の犠牲者は、湾岸戦争より少なくて済むでしょう」と言った、
某大統領のような、人間を数でしか捉えないような視点なのですよ。
それはつまり、いくらかの犠牲者は「計算済み」ということでしょう。
そして、その犠牲者が誰か、という「個人」には、まったく無関心で。

でも、この作品で描かれているのは、「個」であり、「生身」の人間なのだから。

この作品を読んで、彼女たちのことを受けとめるのに、
「原爆投下はやむを得ない」なんて、言い訳がましい断りが、本当に必要なのでしょうか?

長野へ行ってきました2
2005年10月10日 (月) | 編集 |
日本の滝百選のひとつ、「米子大瀑布」へ。
ところが、いつ雨が降ってもおかしくない天気。
山は霧に包まれて、肝心の滝は見えませんでしたとさ。

大瀑布の1つめ、「不動滝」は、しぶきを浴びるほどに近づけるので、一応姿を拝んできました。
近づきすぎて、かえってよく見えないというか、全体像がつかめないというか。
滝の頭は、霧のために見ることができず、大迫力。
天から落ちてくる滝を、全身で浴びたような気分に。
そして、2つめの「権現滝」。こちらはまるっきり何も見えず……

滝はちょっと残念だったけれど、久々の山歩きは心地よかった。
寒すぎず、暑すぎず、気温についてはコンディションばっちり。
全体に霧が立ちこめているので、しっとりとした空気がおいしい。
そして、植物も土も石も、湿気をまとってつややか。
緑は全体に薄い色で、天気は悪いのだけれど、ほの明るい。
ちょっと意外な感じ。
これは、山を知らない者の感想かな。
鮮やかな緑も美しかったし、もっと紅葉する時期であれば、
また眺めを楽しめることでしょう。

IMGP1348**.jpg
メインの滝は見られなかったけれど、途中の眺めでも十分楽しめました。

その後は、軽井沢へ移動して、絵本の森美術館へ。
木葉井悦子氏特集をやってました。
初めて見る木葉井さんの絵は、とても生命力に溢れていた。
いわゆる「ヘタウマ」の部類だと思うのだけど、やっぱり、うまいんだなー、と唸ってしまう。
一見、子供の殴り書きのような感じだが、実はとても巧妙で、ダイナミックな構造と、独創的な配色にパワーを感じる。
そして、なんでもデフォルメしているようで、肝心なところは、ちゃんと細部まで描かれている。
植物と動物の混合したような習作などを見て、ああ、この人も感性の人だ、と思った。
そういう世界で生きていた人なのだ、と。

長野へ行ってきました1
2005年10月09日 (日) | 編集 |
まずは、善光寺前の通りで、犬の運動会を見学。
ワンワンスクール(犬のしつけ教室)の日頃の成果を、皆さんにお見せしましょう〜、というイベントでした。
チビ犬からデカ犬まで、犬種は様々。
その大小まちまちな犬が、同じ土俵で障害物走や水汲みレースをするのは、端で見ているとなかなか面白かった。
思えば人間は、年齢別、性別、体重別……と、なんでも制限を設けるのが好きだ。
犬も、もっと本格的な「競技会」なら、犬種別とか少なくとも小型・中型・大型くらいの別はあるのだろう。
でも、そんなの関係なく一緒くたにやるもの、ほほえましくてよい。
人間の学校の運動会でも、あえて学年の枠を取っ払ってみたら、面白かったりしないかなー、などと思ってました。

松代へ移動して、「真田十万石祭り」の大名行列見物。
屋台で適当におやつを買って、公園で食べながら待つ。
お祭りだし、もっと人出が多いかと思ったら、意外にそうでもなく。
もっと街中の方(屋台の出ている歩行者天国ゾーン)が見物客も多いようで、
この公園から見物するのは、穴場スポットだったみたい。
おかげで、端から端まで通り過ぎていく行列を存分に眺められたし、
写真を撮るのにも、障害物がなく、いい環境でした。

しかし、大名行列をわざわざ再現するというのは、
たぶん観光客目当ての企画なのだと思うのだけど、この客数でいいのかなー?

gyoretsu.jpg

兵どもが夢のあと
(明治かな?洋装もいるけど)

いろんな意味で贅沢な落語会
2005年10月01日 (土) | 編集 |
屋形船に乗って落語を聴く会に行ってきました。
天気も良かったし、舟日和。
参加者には着物の人もいて、なかなかよい雰囲気に。

初めての屋形船は、思ったより広くて快適でした。
しかし、思ったよりも水面が近く、また思ったより揺れる。
水面下で何が起きているのか知らないけど、時折、ゴトリゴトリと音がする。
もちろん、振動も。
ちょうど、自動車が縁石に乗り上げたような感じに。
揺れるのはもっと大胆で、左右にゆわんゆわんとなる。
たぶん、波と船の向きとの関係だと思うのだけど、
正直、ちょっと怖かったです。
ライフジャケットの在処は、即チェックしましたとも(笑)

屋形船といえば、揚げたての天ぷら。
さっぱりしていて、とても美味しかったです。
そしてこの天ぷらが、「わんこ天ぷら」かっていうくらい、
食べても食べても、次々に盛りつけられる。
さすが江戸っ子は、気前がよい。

久々の落語も楽しかった。
噺家さんは、林家久蔵さんで、演題は、「浮世床」と「井戸の茶碗」。
「浮世床」は、とても流ちょうで、夢オチへのどんでん返しが見事。
「井戸の茶碗」は、時間がなくて焦っていたせいもあるのか、ちょっとバタバタして手に(舌に?)つかない感じだった。
もうすぐ真打ち昇進が決まっているそうだけど、まだ二つ目、修行中らしさがあってほほえましかったです(って、何様だオレ)。
いずれにしても、滑舌はさすがで、とっても聞きやすかったのがよかったですよ。
足袋忘れて、真っ赤な靴下だったことはご愛敬ってコトで(笑)

途中、マイクが混線して、どっかの船の合コン模様が流れたり、
佃煮屋が船を着けて、売りに来たりと、ハプニングも面白く、
桟橋に着く頃は、黄昏時で、また趣よろし。

久蔵

↑船の屋根の上で、練習中の久蔵さん