本読みの感想(ネタバレあり)を中心に、日々のことごとを。
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偉大なる処女作(ねこたま)
2009年10月11日 (日) | 編集 |
久しぶりに、小林めぐみ『ねこたま』を読みました。


ストーリーを全然覚えてなかった自分にがっかりした!(笑)
キャラクターのことしか覚えてなかった。
それだけキャラの魅力がたっているということか。


『ねこたま』を初めて読んだときの衝撃は今でも忘れない。
物語も文章も、このひと天才だ!と思ったものだ。
そしていつだったか何年かぶりに読んだとき、
意外と荒削りだなあ、やっぱり小林さんも幼かったのね、
と思ったことも忘れない。


そして今回。
ふつうにおもしろかった。

「ふつうに」ってなんだ?
つまり、初版から20年近いというのに、
いま初めてと同じように楽しめるくらい、おもしろかった。
文章も、確か「にてにをは」が抜けていたり、勢いに任せた感じがあるけど、
適度にゆるいところが小林さんらしい。
(その後、一時期小難しくなって、最近ゆるくなりすぎだったりするけど)

ページ数の割に、展開がめまぐるしい。
たぶん、今だったら2・3冊になってしまうんではなかろうか、
これだけのシーンがあったら。
そうでないから、おもしろい。
密度が濃い? でもゆるい。


処女作に勝るもの無し、と言った人がいたけれど、
そうだろうなあと思わせる。

「ねこたま」は偉大なり。

不便で曖昧で自由な数字ってやつ(数字のモノサシ)
2009年01月18日 (日) | 編集 |
寄藤文平『数字のモノサシ』読了。

「大人たばこ養成講座」でおなじみの、寄藤さんの本。
独特な雰囲気のイラストがてんこもりなので、
あっさり読み終わった。

なるほど「数」というのは、「絶対」なように見せかけて、
その実、不便で、曖昧で、自由なものなんだな。
何かを一面ではなく、多面にとらえようとする思考が、
とても刺激になる。
(養老孟司の『バカの壁』を思い出した)


同じ数字でも、「お得」と感じたり、「損だ!」と感じたり、
「すごい!」と思ったり「たいしたことない」と思ったり、
ずいぶんと<心のモノサシ>に左右されていることが、
よーくわかって、おもしろかった。
なんとはなしに気づいているのだけれど、
改めて絵で表現されると、ナルホドネと膝を打ちたくなる。


そうそう、数日前にNHKの番組で、
「サンクコスト(埋没費用)」の解説をしていた。
もはや回収できない投資をいつまでも引きずっていちゃダメ、
すっぱりあきらめて、新しいことに目を向けなさいって話だったけれど、
このサンクコストは<心のモノサシ>のわかりやすい例だ。

損を取り戻そうって思うのか、
損を損だと思わずに捉え方を変えるのか。
<心のモノサシ>を操るのは容易ではないけれど、
少しでも鍛えられると、世の中やわらかく過ごせそうだ。
そう、絶対だと思っていた<数>が、
曖昧なヤツなんだとわかってきたら、
つきあい方も変えられそうな気がするからね。

日本語を音でとらえる(ひらがなでよめばわかる日本語)
2009年01月12日 (月) | 編集 |
中西進『ひらがなでよめばわかる日本語』(新潮文庫)読了。

なるほどねー!
とは手放しには言えないけれど、総合的には面白かった。

出だしの発想、つまり
「<やまとことば>の漢字表記は
 あとから文字を当てはめたのだから、
 音でとらえるべきだ」
という考え方には、非常に共感を覚える。


しかし、そこまで言っておきながら、
古代の「ひ」「み」「へ」などには複数の発音があったけれど、
その違いはちょっとした意味の派生にすぎない「仲間ことば」なのだ、
というまとめ方は納得いかない。
(例:「ひ」の「日」と「火」は発音が違う。でも語源は同じ、とする)

たとえば、現代語で「雨」と「飴」の発音の違いを、仲間とするか?
って思うわけですよ。
(ちょっと違う指摘かもしれないけど)
その辺の雑さ加減が、ときどき読んでいて苛立たしい。


それから、冒頭で人間の顔や体の部位を示す言葉と、
植物の部分を示す言葉に共通性がある、というところ。
たとえば、「花」と「鼻」。
「芽」と「目」。「葉」と「歯」。「実、実」と「耳」…
これは非常に興味深い観察なのだけれど、
その理由付けが無駄に小難しくてイマイチ。
ときどきこじつけ臭いのもイマイチ。

もっと古代人の発想はシンプルだったと思うのだけれど。
単純に、似ているから同じコトバをあてた、というふうにね。


とはいえ。
現代ではやたらに漢字の使い分けがある「かげ」や「うつす」の、
ことの起こりを辿ってみる試みは楽しいし、
「かなしい」を「愛しい」とも書くわけにはなるほどと思うし、
「とこ」と「つね」(常)の使い分けなども面白い。
また、「いのち」「たましい」にまつわる分析は、
古代人の習俗・信仰もかいま見せてくれる。


全体的にやや散漫なところが残念ではあるが、
何気なく使っている日本語を、
見つめ直すよいきっかけにはなるだろう。
やはり、「ことば」は面白い。

自己矛盾、解放と叫び(沼地のある森を抜けて)
2009年01月04日 (日) | 編集 |
梨木香歩『沼地のある森を抜けて』再読終了。

少しは前より理解できたと思う。
が。うーん…
なんというか、やっぱり難解かつ壮大なお話だと思う。
正直、梨木作品の初めての出会いがこの作品だったら、
別の作品に続かなかっただろうなあ…。


自己と種の境界。
子孫を残すこと。分裂あるいは有性生殖。
コピーなのか、「似て非なるもの」か。

微生物のミクロな話から、原初の生命体の「個」と「孤独」へと展開し、
はては男性性・女性性、あるいは沼地性(!)やら酵母性へと続く、
生化学なんだか哲学なんだか、頭の中がクラクラする。

「無性」でありたいという風野さんも、
昔の記憶が曖昧になって、あまり頓着しなくなってきた久美も、
おそらくは梨木さんの投影だとするならば。
いや、たぶん色濃く投影されているのだろう。
梨木さん自身が「無性」であろうと生活しているか、
という意味ではなく、
押し付けられる「○○らしく」の息苦しさを強烈に感じ取る人という意味で。
反対に、その「ウォール」に囲まれる安定を好んでしまう、とい意味で。

その手の自己矛盾は、おおいに共感できる。


連綿と受け継がれている「何か」。
変わらない、しかし毎回どこかオリジナルな「何か」。
なるほど『からくりからくさ』に通じている。
『からくりからくさ』では紀久の台詞がいちいち実感を伴うと思っていたが、
おそらく、梨木さんの自己矛盾を一番直截的に言っていたのが紀久なんじゃないかと。
『沼地〜』では風野さんか。
そのあたりは、まだ読み取りが不十分な感触がある。


『沼地のある森を抜けて』は、小説の形をとっているけれど、
物語(ストーリー)そのものは実はどうでもよくて、
梨木さんの押さえきれない「叫び」みたいなものなのではなかろうか。
作中にそれが練り込まれている。
ちょうどぬか床を毎日かき回す女性たちの声のように。
中に漬け込まれた久美や風野さんや富士さんや、
フリオや光彦やカッサンドラや、
いろなものを取り出して、茄子や胡瓜よろしく食べるのだ。
そのうちきっと、その深みの味をわかるときがくると信じて。

復活です
2009年01月02日 (金) | 編集 |
2009年、あけましておめでとうございます。

放置しているなーとは思っていましたが、
もう1年半も経っちゃったんですね。あらら。
すみません。
そろそろ復帰しようと思います。
これまでに懲りず、よろしくおつきあいのほどを。


***

空白の間の読書としては(印象羅列)。

まず、小野不由美「十二国記」シリーズにはまりました!
全巻2連続通しで読んでしまうほどに。
しかし、感想を書くにはまた読まないと…
しばらく先になりそうです。

「バッテリー」も「守り人」「旅人」も、
ちゃんと完結まで読みました(バルサは外伝も)。
あと、「文学少女」シリーズにちょっとはまって、
加納朋子さんにちょっとはまって…

いせひでこさんの絵本は、
なるべく原画展で入手しようとねばって、
ようやく先日『にいさん』『くるみわり人形』をゲット。
あとは、『絵描き』『ルリユールおじさん』が増えてます。

「西の魔女が死んだ」の映画を観たせいか、
梨木香歩さん再読したいブームがやってきて、
でもなぜかなかなか手を付けず、
ようやく『ぐるりのこと』を読んだので、
現在『沼地のある森を抜けて』中。

そんな感じです。